20世紀日本人名事典 「林忠崇」の解説
林 忠崇
ハヤシ タダタカ
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…海外諸国に駐在の使臣として,1870年10月,大弁務使,中弁務使,少弁務使,大記,少記の設置が布告され,72年10月,その名称は特命全権公使,弁理公使,代理公使,一等書記官,二等書記官,三等書記官に改められた。日露戦争後,欧米各国の日本公使館の大使館昇格に伴い,1905年12月に林董駐英公使が英国駐劄(ちゆうさつ)特命全権大使に任命されたのをはじめとし,以下米,独,仏,伊,墺,露各国駐劄公使が順次大使に昇格した。 おもな機構の変遷としては,1873年11月,弁事局,外事左局(欧州各国事務),外事右局(米・アジア両州事務),考法局,翻訳局,庶務局が設置され,機構がほぼ確立された。…
…明治時代以前の事情については,小林元の《日本と回教圏の文化交流史》(1975)が詳しい。 明治初期に在ロンドンの外交官林董が東本願寺の島地黙雷に請われて英文文献をもとにして《馬哈黙伝(マホメット伝)》(1876)を刊行している。これは明治維新後に日本の宗教制度を見直す参考とする意味をもっていた。…
…1900年中国で起こった義和団の蜂起と列国によるその鎮圧は,イギリスをして東アジアにおける日本の軍事力に注目させる機会となったし,また日本は義和団事件中に行った厦門(アモイ)占領計画に失敗し南進の企画をくじかれ,一方,ロシアの満州駐兵が進み,日本が朝鮮,中国への侵略をはかるうえで,北方のロシアとの対立が深刻化した。こうしたなかで,01年4月,林董(ただす)駐英公使は日英間の永久的協約について見解を表明し,10月には日本政府は林公使に日英同盟商議の権限を正式に付与した。日本国内では,日露協商を説く伊藤博文らと,日英同盟を要求する桂太郎らの意見が対立,確執を生じもしたが,結局,02年1月30日,ロンドンで林駐英公使とランズダウン外相の間で日英同盟協約が調印され,即日実施された。…
※「林忠崇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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