日本の城がわかる事典 「栖吉城」の解説 すよしじょう【栖吉城】 新潟県長岡市にあった山城(やまじろ)。戦国時代の古志長尾氏の居城。同市街東方にある城山(通称鎧山)の山頂(標高335m、比高約270m)に築かれ、その城域は東西約600m、南北300mと、新潟県内の中世の城の中では規模の大きい部類に入る城郭である。永正年間(1504~21)に古志長尾家の長尾孝景が築城し、古志長尾家の本拠を蔵王堂城から、この城に移したといわれているが、築城年代ははっきりしていない。1509年(永正7)、関東管領の上杉顕定は、越後守護の上杉房能を襲撃して自刃させ上杉定実を新守護に擁立した守護代の長尾為景(謙信の父)を攻めたが、翌1510年(永正8)、為景は反攻して長森原の戦いで顕定を敗死させた。栖吉城主の長尾房景はこの顕定の報復時、為景方から顕定方に転じて蔵王堂城を攻めたが、のちに再び為景方に転じた。その後、房景あるいは長尾顕吉の息女(虎御前・青岩院)が長尾為景に嫁ぎ、虎千代(長尾景虎、のちの上杉謙信)を生んだ。14歳になった景虎は、兄・晴景の命により栃尾城(長岡市)に入城するが、同城は栖吉城の有力支城の一つだった。のちに、景虎は栖吉城の古志長尾氏をはじめとする越後有力武将を味方につけ、兄晴景を追って国司の座につくことになる。こうしたことから、景虎が上杉姓を襲名して関東管領になると、栖吉城主の長尾景信は上杉姓を許され、謙信の直太刀衆の筆頭となった。1578年(天正6)、謙信の死後、その後継者をめぐって御館の乱が起こったが、このとき、景信は小田原北条氏から謙信の養子に入った上杉景虎を支持した。これはもう一方の養子の上杉景勝が上田長尾氏の出身で、坂戸城(南魚沼市)の上田長尾氏を背景としていたため、その対抗上、景虎方に与したといわれる。景信は同年6月11日、景勝方との戦い(居多浜の合戦)に従軍し、討ち死にしたといわれる。ただし、戦死したのは景信ではなく、その子景満(信虎)だったとする見方もある。こうして古志長尾氏は滅んだが、その後、栖吉城は上杉景勝の属城となり、河田長親の子、岩鶴丸が城主に任じられ、古志長尾氏の遺臣(古志衆)を栖吉衆として再編した。その後、河田氏が途絶えると、遺臣の古志衆が番将をつとめたといわれる。しかし、1598 年(慶長3)、上杉景勝が会津に移封になると、栖吉城は廃城となった。現在、城跡には曲輪(くるわ)、土塁、堀切、竪堀、畝状阻塞などの遺構が残っている。JR信越本線・越後線・上越新幹線長岡駅からバス。城山(鎧山)麓の栖吉神社と普済寺の2ヵ所に城山の山頂に至る登山道がある。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報