日本歴史地名大系 「栗坪村」の解説 栗坪村くりつぼむら 埼玉県:日高市栗坪村[現在地名]日高市栗坪梅原(うめはら)村の東、高麗(こま)川右岸にあり、東は野々宮(ののみや)村・楡木(にれぎ)村。西方高麗川対岸は高麗本郷(こまほんごう)。東から西へ川越から秩父への道が通る。高麗郡高麗領に属した。村名は栗の名所で、壺内に蓄えた栗が翌春まで味が変わらないことに由来するという(風土記稿)。慶長二年(一五九七)高麗町(のちの高麗本郷)にあった幕府代官大久保石見守長安の陣屋(高麗陣屋)が焼失したため、当村内梅原村境近くに移った。同様に市も当村内に移転したことから町場化し、川越秩父道に沿って当村から梅原村にかけて約四町の町並ができたという。これにより高麗町の名称も当地に移り、同町のうち下町が当村内にあった。陣屋諸用向・割元は高麗町名主に命じられ、慶長二年・寛文八年(一六六八)の検地の際の案内も町名主が勤めた(文化二年「市再興諸書物控并訳」堀口家文書)。近世中期までは人別五人組帳などは高麗町分は村分とは別になっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」同文書)。田園簿では田二一石余・畑一三四石余、幕府領。延享三年(一七四六)三卿の一橋領となり、翌四年幕府代官からの引渡しが行われた(「高麗陣屋天正一九年以来代官交替覚書」高麗家文書)。 栗坪村くりつぼむら 千葉県:君津市旧望陀郡地区栗坪村[現在地名]君津市栗坪小櫃(おびつ)川左岸に位置し、北は向郷(むかいごう)村。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳には「西坪村」一一八石とあるが、栗坪村の誤りか。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、久留里藩領。以降の領主の変遷は向郷村に同じ。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by