梅原村(読み)うめはらむら

日本歴史地名大系 「梅原村」の解説

梅原村
うめはらむら

[現在地名]福光町梅原

一日市していち村の東、大井おおい川東岸にある。「天文日記」天文一八年(一五四九)七月一〇日条、同二一年三月五日条には「梅原少将」、同二〇年七月二三日条には三十日番衆として井波瑞泉いなみずいせん寺下の「梅原浄珍」の名がみえ、いずれも当地とかかわりのある人物と考えられている。梅原浄珍は当地の真宗大谷派以速いそく(元和元年寺号授与)の前身の僧とも推定されるが未詳。なお同寺開基円信は後鳥羽天皇第六皇子梅原親王と伝えられている。また「瑞泉寺系譜」には井波瑞泉寺五世賢心の兄弟賢勝(少弐)は「住梅原」とある。


梅原村
うめばらむら

[現在地名]明和村梅原

利根川左岸にあり、東は江口えぐち村、西は川俣かわまた村。中世は佐貫さぬき庄に含まれ、梅原郷と称した。元応元年(一三一九)九月二四日の佐貫梅原時信在家田畠売券(長楽寺文書)には「むめはら」とあり、時信は坪付注文を添えて郷内の在家付畠二反と田四反を三三貫五〇〇文で加地三郎左衛門尉女子尼仙心に売却、翌二年二月二三日の関東下知状(同文書)でこの売買が認められている。売却地には公田一反があって公事を出し、他は万雑公事がなかった。


梅原村
うめはらむら

[現在地名]和歌山市梅原

名草なくさ郡に属し、中野なかの村の北方に位置する。東はなか村、西は海部あまもと村。中村境より北に孝子越きようしごえ街道が通じ、村内を東西に淡島街道(旧南海道)が通る。中村の三笠みかさ谷から流れる宮谷みやだに(現大年川)が村の東部、中村境を南流する。村の北、葛城(和泉)山脈の国境上に宗箇松という大木があり、浅野氏の重臣で茶人でもあった上田宗箇が邸の借景としたところから、その名があるという。古代には紀ノ川河口部の沿岸で、当地辺りはきし(貴志村)と称されていたと考えられる。古代末期以降は薗部そのべ庄の内であった。

慶長検地高目録によれば高五四〇石余。貴志組に属し、家数六七、人数二四九(続風土記)


梅原村
うめはらむら

[現在地名]日高市梅原

高麗本郷こまほんごうの南東、蛇行しながら北東流する高麗川右岸にある。東は栗坪くりつぼ村。東西に川越と秩父を結ぶ道が通り、約一町にわたって町並がある。高麗郡高麗領に属した(風土記稿)。慶長二年(一五九七)、対岸の高麗町(のちの高麗本郷)から大久保長安の陣屋が当村境の栗坪村内に移転。市も移ってきたことから村境一帯が町場化し、高麗町と称されるようになった。同町のうち上町は当村内にあり、近世中期までは人別五人組帳などは村分とは別となっていた(元禄一四年「高麗町人別・高之儀ニ付口上書下書」堀口家文書)


梅原村
うめはらむら

[現在地名]高富町梅原

北は丘陵を越えて大桑おおが村、東は西深瀬にしふかせ村・高木たかき村。中央が東西に細長く平地となり、高富村から伊自良いじら(現伊自良村)に向かう街道が通る。慶長郷帳と元和二年(一六一六)の村高領知改帳によれば領主は旗本保々則貞四〇〇石、津田吉兵衛一六一石余、幕府領一千三石余。保々氏は正保元年(一六四四)までに転封となり、同氏分は幕府領となる。津田氏も転封となり、同氏分は正保二年からは尾張藩領となる。正保郷帳では田方一千四一八石余・畑方一四五石余で、幕府領一千四〇三石余、尾張藩領一六一石余。


梅原村
うめはらむら

[現在地名]滑川市柳原やなぎはら柳原新町やなぎはらしんまち

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇端部付近に位置し、南は柳原村、西は辰尾たつのお村。出来新村・退転村記申帳によると、元禄三年(一六九〇)の村立てで、免は毎年の図り免。頭振のみが居住。この時の草高六〇石(三箇国高物成帳)。明和五年(一七六八)の家数はなしで(奥野家文書)、以後人家のあった記録はない。


梅原村
うめはらむら

[現在地名]美並村梅原

長良川左岸にあり、南は相戸あいど村・深戸ふかど村。正保郷帳に村名があり、田方二五石余・畑方五八石余。正保国絵図に番所が記され、白谷しらたにの切手改番所である。宝暦六年(一七五六)の郡上郡村高覚帳(鈴木文書)になぜか記載がない。安永二年(一七七三)の郡上領留記(大西文書)では下川筋川東に位置づける。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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