日本歴史地名大系 「桑原庄」の解説
桑原庄
くわばらのしよう
「和名抄」の佐伯郡桑原郷の地に立荘されたと思われる厳島神社領の荘園で、鎌倉時代中期には桑原新庄ともみえる。仁安元年(一一六六)一一月一七日の伊都岐島社領安芸国志道原荘倉敷畠代立券文(新出厳島文書)に「一宮御領志道原御倉敷畠代入替吉次領畠事」として「合壱町陸段弐佰肆拾歩 在佐東郡桑原郷内(中略)右件御領畠代、以吉次領畠内、所定入替如件」とあり、桑原郷内の一町六段二四〇歩が厳島神社領
とあり、同じく厳島神社領
桑原庄
くわばらのしよう
- 兵庫県:龍野市
- 桑原庄
「和名抄」に記載される
桑原庄
くわばらのしよう
桑原付近に比定される奈良東大寺領の初期荘園。北陸に多く展開した初期荘園のうちでも、比較的史料に恵まれる。
天平勝宝七年(七五五)三月九日付の越前国司公験(東大寺文書)によれば、これ以前、東大寺は大伴宿禰麻呂から広大な未開野を含む野地一〇〇町を一八〇貫文で買得しており、これをもって東大寺領桑原庄の成立とする。この野地は「綾部道」の南方に広がる「坂井郡堀江郷地」で、同年五月三日付の越前国使等解(尊勝院文書)によれば、正確には九六町二段一一六歩、その内訳は見(現)開田九町・未開田八七町二段一一六歩であった。もっとも天平勝宝七、八年の段階ですでに二〇余町の新たな見開田が出現しており、田使曾禰連弟麻呂・足羽郡大領生江臣東人・勘史生安都宿禰雄足が連署した右の越前国使等解には「見開卅二町」として「主大伴宿禰開九町・今開加廿三町
桑原庄
くわばらのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報