桑原庄(読み)くわばらのしよう

日本歴史地名大系 「桑原庄」の解説

桑原庄
くわばらのしよう

和名抄」の佐伯郡桑原郷の地に立荘されたと思われる厳島神社領の荘園で、鎌倉時代中期には桑原新庄ともみえる。仁安元年(一一六六)一一月一七日の伊都岐島社領安芸国志道原荘倉敷畠代立券文(新出厳島文書)に「一宮御領志道原御倉敷畠代入替吉次領畠事」として「合壱町陸段弐佰肆拾歩 在佐東郡桑原郷内(中略)右件御領畠代、以吉次領畠内、所定入替如件」とあり、桑原郷内の一町六段二四〇歩が厳島神社領志道原しじわら(現山県郡豊平町)の倉敷地として立券されたことが知れる。嘉応三年(一一七一)正月日付の伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文(同文書)にも

<資料は省略されています>

とあり、同じく厳島神社領壬生みぶ(現山県郡千代田町)の倉敷地ともなった。西に山、北に田、東と南に川という四至は、現在の東西の山本やまもと地区、長束ながつか地区の地形に合致し、桑原郷の地はほぼこの付近に比定され、桑原庄も同地とされる。現在は近世以降の埋立などにより海岸線から遠く隔るが、古くは広島湾が深く湾入し、山本・長束の辺りは太田おおた川の河口近くに位置し、太田川舟運と内海航路の接点にあたり、内陸部諸荘園の物資中継地として重要な地位を占めていたことが考えられる。


桑原庄
くわばらのしよう

「和名抄」に記載される揖保いぼ郡桑原郷の郷名を継承したと推定される庄園で、現揖西町いつさいちよう地区の西部一帯に比定される。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月九日条に、播磨国守護梶原景時配下の武士に押領された庄園として桑原五ヵ庄とみえ、武士の押領を退けるようにとの要請に対し、いったん退去しながら隙をうかがっては濫妨している輩に厳命を下すよう後白河院が源頼朝に命じている。当庄は建春門院平滋子の御願で建立された最勝光さいしようこう(現京都市東山区)領の庄園で、女院の没後には後白河院の管理下にあった。建久三年(一一九二)三月日の後白河院庁下文案(大徳寺文書)に院の寵妃丹後局(高階栄子)の知行する庄園二四ヵ所のうちとして桑原保(最勝光院領)とみえ、大嘗会・造野宮・宇佐勅使・住吉造宮・造内裏・御願寺以下の勅院事国役ならびに国郡司甲乙諸人の妨げ等を長く停止させている。


桑原庄
くわばらのしよう

桑原付近に比定される奈良東大寺領の初期荘園。北陸に多く展開した初期荘園のうちでも、比較的史料に恵まれる。

天平勝宝七年(七五五)三月九日付の越前国司公験(東大寺文書)によれば、これ以前、東大寺は大伴宿禰麻呂から広大な未開野を含む野地一〇〇町を一八〇貫文で買得しており、これをもって東大寺領桑原庄の成立とする。この野地は「綾部道」の南方に広がる「坂井郡堀江郷地」で、同年五月三日付の越前国使等解(尊勝院文書)によれば、正確には九六町二段一一六歩、その内訳は見(現)開田九町・未開田八七町二段一一六歩であった。もっとも天平勝宝七、八年の段階ですでに二〇余町の新たな見開田が出現しており、田使曾禰連弟麻呂・足羽郡大領生江臣東人・勘史生安都宿禰雄足が連署した右の越前国使等解には「見開卅二町」として「主大伴宿禰開九町・今開加廿三町(朱字)去年開」」と注し、また「未開六十四町二段一百一十六歩」とある。


桑原庄
くわばらのしよう

桑原付近に比定される安楽寺(太宰府天満宮)領の庄園。安楽寺草創日記によれば、康和二年(一一〇〇)大江匡房が安楽寺満願まんがん院を建立し、桑原庄三〇町を寄進したといい、このとき立庄されたのであろうか。正平一一年(一三五六)八月七日の征西将軍宮令旨(木屋文書/南北朝遺文(九州編)四)によれば、「志摩郡内桑原庄」三〇町領家分が兵糧料所として木屋行実に与えられた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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