桑原郷(読み)くわばらごう

日本歴史地名大系 「桑原郷」の解説

桑原郷
くわばらごう

和名抄」高山寺本に「原」、流布本に「桑原」と記し、流布本にのみ「久波波良」と訓ずる。東は久米くめ吉井よしい郷、西は立花たちばな郷、南は吉井・天山あまやまの二郷、北は井上いのえ郷に接する。出雲坊宗賢が、寿永三年(一一八四)に備後国の西寂を討って河野氏から重視され、桑原の地に居住して地名を姓とするに至った(予章記、予陽河野家譜)。それ以来、桑原氏が桑原城を築きこの地区を支配した。長禄三年(一四五九)の河野通生安堵判物(忽那家文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、通生は配下の忽那通賢に桑原枝重名を給与している。河野通直が文明一三年(一四八一)石手いして寺の本堂・山門を再建した時、材木を寄進したもののなかに「桑原殿」の名がみえる(石手寺棟札)


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「桑原」と記し、訓を欠く。正倉院宝物の天平勝宝七年(七五五)一〇月の年号がある緑大幡断片の墨書に「土左国吾川郡桑原郷戸主日奉部夜恵」とある。「日本地理志料」は「秦氏地検帳、以秋山東南ノ地仲村郷、弘岡以西至伊野大野郷、而郡中無地ノ可桑原・次田、天正中已郷名也、今有芳原村・八田村、疑桑原・次田之転邪」とする。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」東急本は託麻郡の冒頭に置く。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「久波波良」と訓を付す。正平二年(一三四七)九月二〇日の恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写(阿蘇家文書)に「子守八郎惟一申肥後国六ケ庄内青木(ママ)地頭職、同庄内桑原郷地頭職事」とあり、応永六年(一三九九)三月五日の戸賀崎氏範施行状(詫摩文書)にも「六ケ庄内志那子・桑原・安永三ケ村」とあって、桑原郷は託麻東郷の六箇ろつか庄内であった。


桑原郷
くわはらごう

来光らいこう川上流域の桑原一帯に所在した郷。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月二四日条に「桑原」とみえ、石橋山合戦に敗れた北条宗時が土肥どい(現神奈川県湯河原町)より当地に降り平井ひらい郷へと逃避行の末、早河(来光川か)付近で小平井こひらい名主紀六久重に射取られた。北条時政は子宗時の法会を同四年中に法華ほつけ(現三島市)で行い(増訂豆州志稿)、墳墓堂を建て菩提を弔った。薬師堂に安置する阿弥陀三尊脇士像胎内銘によると、時政との関係から修禅しゆぜん(現修善寺町)大日如来像を造立した仏師実慶が当地に阿弥陀三尊像を造立した。


桑原郷
くわばらごう

「和名抄」所載の郷。東急本の訓は「久波々良」。「播磨国風土記」に桑原里がある。風土記によればもとは倉見くらみ里と称した。地名の由来に二説ある。一は応神天皇が邑智おうち里との境の欟折つきおれ(槻坂)に立ち遠望したところ、高い倉がみえたので倉見と名付け、その後に桑原と改めたという説。もう一つは桑原村主が讃容さよくらみから鞍を盗んだところ、持主が当地で見つけたのにちなんで見と名付けたという説である。坂上系図所引の姓氏録逸文によると、桑原村主は大和国高市たけち郡を本拠とする東漢氏系統の渡来系氏族で、「人衆巨多、居地隘狭」につき諸国に移住した。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「久波波良」と訓を付す。現葦北郡芦北あしきた桑原くわばらが遺称地とされる。ここは同町の山手佐敷さしき川の左岸で、当郷は川の中上流の谷々をさすものと思われる。


桑原郷
くわばらごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「桑原」と記すが訓を欠く。「芸藩通志」は「其所を失ふて知るべからず、郡の東境にありしと見ゆ」とする。「日本地理志料」は、桑は蓁の字の誤りで、蓁は萩あるいは灰とし、世羅郡萩原はいばら萩原福田はいばらふくだの二村(現賀茂郡大和町)を中心に、賀茂かも(現世羅郡世羅町)下徳良しもとくら・上徳良(現大和町)の諸村にあてる。「大日本地名辞書」は「今詳ならず、甲山町及び川尻伊尾等にあたるか、郡の東偏とす、甲山に大字小世良あり、蓋旧郡家とす」としている。


桑原郷
くわばらごう

「和名抄」は諸本とも訓を欠くが、信濃国諏訪郡桑原郷を東急本が「久波々良」と訓ずるので、クハハラであろう。郷名は古代文献に所見がない。長元九年(一〇三六)一月二三日の左京保刀禰請文(九条家本延喜式巻三六裏文書)に記す「近江目桑原」は当郷にかかわると思われる。所在地は「日本地理志料」は現朽木くつき村の麻生あそ川・針畑はりはた川流域などの山間部と安曇川あどがわ町の北西部とし、「大日本地名辞書」は新旭しんあさひ町の南部とする。


桑原郷
くわばらごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「桑原」と記すが訓を欠く。「日本地理志料」は坪井つぼい(現佐伯郡五日市町)にあてる。「大日本地名辞書」は「今三篠村、長束村にあたるかと想はるゝも、未だ明確ならず」とする。新出厳島文書の嘉応三年(一一七一)正月日付伊都岐島社領安芸国壬生庄立券文に「倉敷壱所、在佐東郡桑原郷内」とみえ、その四至に「限東江 限南大河 限西山峰 限北恒用領并永弘領田」とあり、「広島県史」はこの四至と字名から明治二二年(一八八九)の町村制施行で成立した長束ながつか山本やまもと両村(現広島市安佐南区)に比定。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」高山寺本・東急本ともに「桑原」と記し、訓を欠く。「続風土記」は「日本霊異記」中巻の第一一話に「紀伊の国伊刀の郡桑原の狭屋寺」とみえる狭屋さや寺跡を佐野さや(現かつらぎ町)に比定し、これによって桑原郷を「大抵今の加勢田四郷両荘の地なり」と比定する。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」所載の郷で、同書高山寺本など諸本とも訓を欠く。信濃国諏訪すわ郡の同名郷に久波々原(東急本)の訓があるので、クハハラであろう。比定地は未詳であるが、江戸時代の(現流山市)桑村の転じたもので桑原に通じるとみる説があるが(大日本地名辞書)、現埼玉県杉戸すぎと町に比定する説もある(「下総国旧事考」など)


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」高山寺本・刊本ともに訓を欠く。郷域未詳。現御所ごせ市大字池之内いけのうち朝町あさまちにそれぞれ小字桑原くわばらが残る。「日本書紀」神功皇后摂政五年三月七日条に「桑原・佐糜・高宮・忍海、凡て四の邑」とあり、「続日本紀」天平宝字二年(七五八)六月二五日条に葛上郡の人桑原史年足、天平神護二年(七六六)二月二九日条に大和国の人桑原村主岡麻呂の名がみえる。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「久波々良と訓ムべし」とし、比定地をあげないが、上妻郡の他の三郷(太田・葛野・三宅)の位置関係からすると、現在の八女やめ南東部に存在した可能性が強い。


桑原郷
くわばらごう

「和名抄」高山寺本に「桑原」と記すが訓を欠く。流布本に「久波波良」と訓じている。現諏訪市東南部に桑原という大集落が残っているので、これを中心とした地域であることに異説はない。


桑原郷
くわはらごう

「和名抄」所載の郷。同書高山寺本をはじめ諸本とも訓を欠く。現在の地名や史書に関連するものがなく、比定は困難であるが、郷名から台地を主とした地域が想定され、桑が植栽されていたとも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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