桑田村
くわだむら
[現在地名]岬町桑田
嘉谷村の北東方に位置し、夷隅川が南北に大きく蛇行する左岸側を村域とする。台・城手下・横町・築道・駒方・矢竹の地名が分布、矢竹城(矢嶽城)に関連すると考えられる。同城は万喜城(現夷隅町)の支城で麻生主水介の拠城という(房総治乱記)。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に幸田村とみえ、高五七二石。寛永二年(一六二五)の知行宛行状で桑田村五七二石余が旗本井沢氏に与えられた。同領として幕末に至るが(旧高旧領取調帳)、村高は八〇〇石余となる(天保郷帳など)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一七八。
桑田村
くわたむら
[現在地名]美土里町桑田
生田村の南に位置し、西は山県郡、東は北村に接し、集落は生田川の支流で村西方の小平山を水源として東流する桑田川の上流域に集まる。「芸藩通志」に「広三十五町、袤三十町、南西北みな山にて稍嶮し、東は僅にひらく、川三筋、村中にて合流し東に走る、民産山業あり」とある。村名は「当村名往昔桑之大木御座候跡当時田地と相成居申候故に村名を得候由語り伝えに承り候」(国郡志下調書出帳)という。
元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「鍬田村」として高二九五・九五九石を記す。
桑田村
くわだむら
[現在地名]立川町桑田
京田川右岸に位置し、東は狩川村、南は千本杉村、西は返吉村・京島村(現余目町)、北は小真木村・福島村(現同上)。慶長一六年(一六一一)、付近の大釜の湧水を引き、さらに狩川大堰上堰の分水桑田堰を引いて立村したという。寛永元年庄内高辻帳に桑木新田村とみえ、高五八八石余。正保郷帳では桑木田村とあり、田五二六石余・畑二三石余。正保庄内絵図(本間美術館蔵)には桑田村とあり同高。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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