梅屋庄吉(読み)ウメヤ ショウキチ

20世紀日本人名事典 「梅屋庄吉」の解説

梅屋 庄吉
ウメヤ ショウキチ

明治・大正期の映画事業家 中国革命援助者。



生年
明治1年11月26日(1869年)

没年
昭和9(1934)年11月23日

出生地
肥前国長崎(長崎県)

経歴
長崎に生まれ、遠縁の貿易商の養子となる。海外に事業を起こし、のち香港で写真館・梅屋照相館を開業。ここで革命家の孫文親交を結ぶ。シンガポールで映画を知り、明治38年フランスのパテー社の映画を購入して帰国。映画会社・Mパテー商会を設立して興行を始め、42年には撮影所を作り製作にも進出。43年白瀬矗中尉を隊長とする南極探険隊が出発すると撮影班を同行させ、貴重な記録映像を残した。45年日本活動写真株式会社(日活)を設立、映画界の元祖となった。亡命中の孫文を自宅にかくまい、宋慶齢との結婚をとりもった他、映画産業で儲けた大金を革命に費やすなど、生涯に渡って孫文と中国革命の援助を続けた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「梅屋庄吉」の解説

梅屋庄吉

没年:昭和9(1934)
生年:明治1(1868)
明治大正期の映画企業家。長崎生まれ。若いころ香港で写真館を経営,のちシンガポールでフランスのパテー会社のフィルムを購入して帰国。のち映画会社Mパテー商会を設立,明治39(1906)年より映画興行や製作に乗り出す。白瀬中尉の南極探検(1910)には撮影班を派遣し,貴重な記録映画を製作した。当時は日本映画の揺籃期で吉沢商店,横田商会,福宝堂などが製作興行を行っていたが,明治末期の不況から梅屋は3社を説きMパテーと合同,大正1(1912)年日本活動写真株式会社(日活)の創立に成功した。以後映画界から遠のくが,草創期の映画事業家横田永之助,河浦謙一らと共に忘れられぬ存在である。<参考文献>田中純一郎『日本映画発達史Ⅰ』

(長崎一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「梅屋庄吉」の解説

梅屋庄吉 うめや-しょうきち

1869*-1934 明治-昭和時代前期の実業家。
明治元年11月26日生まれ。シンガポールでフランスのパテー社の映画を購入,Mパテー商会を設立して全国で興行。南極探検の白瀬矗(のぶ)の記録映画を製作。のち日本活動写真(日活)の創立に参加。また中国革命と孫文の亡命をたすけた。昭和9年11月22日死去。67歳。長崎出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「梅屋庄吉」の解説

梅屋 庄吉 (うめや しょうきち)

生年月日:1868年11月26日
明治時代;大正時代の映画企業家
1934年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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