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白瀬矗 しらせのぶ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

白瀬矗
しらせのぶ

[生]文久1(1861).6.13. 秋田
[没]1946.9.4. 愛知
日本の探検家。陸軍中尉。 1893年に千島列島の探検を行い,さらに千島列島から北極に到達することを計画したが果せなかった。その後,南極探検に転換。 1910年 11月日本を出発して南極大陸に向ったが,冬季のためオーストラリアシドニーに引返して待機。

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デジタル大辞泉の解説

しらせ‐のぶ【白瀬矗】

[1861~1946]探検家。陸軍中尉。秋田の生まれ。明治45年(1912)、日本人として初めて南極大陸に上陸、1月29日に南緯80度5分、西経156度37分の地点まで進んだが、南極点には達しなかった。その地点を大和雪原(やまとゆきはら)と命名。→白瀬隊

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百科事典マイペディアの解説

白瀬矗【しらせのぶ】

探検家。陸軍中尉のとき予備役となり,1893年郡司成忠の千島探検に参加。1910年,開南丸で南極探検に出発,1912年南極大陸の南緯80°5′付近に達して,ここを大和(やまと)雪原と命名,さらに極点に向かったが食糧不足などのため引き返した。
→関連項目しらせ白瀬氷河南極大陸

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

白瀬矗 しらせ-のぶ

1861-1946 明治時代の探検家。
文久元年6月13日生まれ。陸軍軍人となり,郡司成忠の千島探検に参加して越冬を体験。日露戦争で中尉に昇進。明治43年11月開南丸で東京を出航,45年1月南極大陸に上陸,南緯80度5分の地点に到達し,同地を大和雪原(やまとゆきはら)と命名した。昭和21年9月4日死去。86歳。出羽(でわ)由利郡(秋田県)出身。著作に「南極探検」。
【格言など】武田部長は緯度の観測をとげた結果,南緯八十度五分なるを知った(「南極記」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

白瀬矗

没年:昭和21.9.4(1946)
生年:文久1.6.13(1861.7.20)
明治時代の探検家。出羽国由利郡(秋田県)金浦村の浄土真宗浄蓮寺13代住職白瀬知道とマキエの長男として生まれる。明治5(1872)年,近所の医師佐々木節斎の寺子屋で北極の話を聞き,探検家を志す。12年陸軍入隊。26年千島探検隊に加わり,2年間越冬。日露戦争で負傷,中尉となる。42年米国ペアリー隊が北極点初到着に成功したことを知り,目標を南極に変更。朝日新聞社が読者に呼びかけた寄金約5万円を中心に準備を整え,43年11月,開南丸で芝浦沖を出帆した。ノルウェーアムンゼン,英国のスコット両隊との先陣争いを目指したが,大正1(1912)年1月ロス海に入ったとき,すでに両隊は極点に達していた。スコット隊は帰途遭難。白瀬隊はカラフト犬のそりで1月28日,南緯80度5分まで進み,大和雪原と命名した。多額の借金返済に以後20年間苦しみ,貧窮のうちに敗戦の翌年病死。長さ30m,幅7m,204tの木造帆船と貧弱な装備での壮挙は戦後見直され,昭和56(1981)年建造の南極観測船は「しらせ」と命名され,芝浦の記念碑も修復された。同年,生家にも記念像が建立された。<参考文献>秋田魁新報社編『よみがえる白瀬中尉』,綱淵謙錠『極』

(武田文男)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

しらせのぶ【白瀬矗】

1861‐1946(文久1‐昭和21)
明治期の極地探検家。秋田出身。仙台の第2師団に勤務中,北極探検を志し,陸軍中尉で予備役となり,1893年郡司成忠の千島探検に加わる。帰還後北極点到達をめざしたが,日露戦争で延期。さらに1909年アメリカ隊の北極点到達を知って,南極探検を計画する。10年11月29日26人の隊員とともに開南丸で東京を出発し,12年1月16日南極に上陸,南緯80゜5′地点(大和雪原と命名)まで達したが,食糧不足などから探検を断念して帰国した。

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大辞林 第三版の解説

しらせのぶ【白瀬矗】

1861~1946) 探検家。陸軍軍人。秋田県生まれ。1912年(明治45)開南丸(二〇四トン)で南極大陸に上陸、南緯80度5分西経156度37分(大和雪原やまとゆきはらと命名)にまで到達した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

白瀬矗
しらせのぶ
(1861―1946)

南極探検家、陸軍輜重兵(しちょうへい)中尉。秋田県に生まれる。現役中から北極探検を志し、1893年(明治26)郡司成忠(ぐんじなりただ)の千島探検に参加し、占守(シムシュ)島での越冬で寒地での生活経験と自信を得た。しかしアメリカのピアリーが1909年4月、北極点に達したのを知り、目標を南極に変更した。種々の障害を乗り越え、大隈重信(おおくましげのぶ)の後援、朝日新聞社や地元の秋田魁(さきがけ)新報社を通じて全国的な募金など国民の熱意に支えられて、郡司の報効義会が使用した機帆船第二報効丸を入手した。東郷平八郎によって開南丸(204トン)と命名された船は、1910年(明治43)11月、船長野村直吉(のむらなおきち)(1867―1933)を含む27名を乗せて東京・芝浦を出航した。1回の失敗ののち、1912年1月、ロス海の鯨湾(その東を開南湾と命名)から上陸、白瀬と学術部長武田輝太郎たち5人の突進隊は南極点に向かった。悪天候と装備、食糧の制約から、1912年1月28日、一行は南緯80度05分西経156度37分の地点で付近を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、標識を埋めて引き返した。しかし、南極点は前年の12月14日、ノルウェーのアムンゼン隊によって初めて到達され、また1912年1月18日にイギリスのスコット隊も達していた。開南丸の一行は1912年6月、無事横浜に帰着した。白瀬隊が単に南極到達だけを目的としたのでなかったことは、武田を学術部長に据え、途中、気象、潮汐(ちょうせき)、岩石、動物などの調査をしているのでもわかる。南極点には立たなかったが、現代の南極観測、調査につながる今日的意義のある探検であった。第二次世界大戦後、日本は南極に関するすべての発言権を放棄したが、開南湾(1933年アメリカ地学協会が公認)などの地名は各国の地図・海図に記載され定着している。主著に『南極探検』(1913・博文館)、報告書に南極探検後援会編『南極記』(1913・成功雑誌社)があり、出生地の秋田県にかほ市黒川(旧金浦(このうら)町)の白瀬南極探検隊記念館には開南丸模型などが展示されている。南極・昭和基地の南約100キロメートルにある白瀬氷河は、彼の名にちなんだものである。[半澤正男]
『白瀬矗著『白瀬矗――私の南極探検記――人間の記録61』(1998・日本図書センター) ▽長澤和俊著『日本人の冒険と探検』(1973/新装復刊・1998・白水社) ▽秋田魁新報社編・刊『よみがえる白瀬中尉』(1982)』

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世界大百科事典内の白瀬矗の言及

【南極】より

…一方スコットはロス島で越冬し,12年1月17日に南極点へ到達したが,帰路隊員5名全員が死亡した。この頃,退役陸軍中尉白瀬矗(のぶ)の率いる日本最初の南極探検隊は1910年(明治43)11月29日開南丸(204トン)で東京芝浦を出帆,12年1月,ロス棚氷に接近し小湾(開南湾と命名)から偵察隊が上陸し,本隊は鯨湾近くに上陸した。白瀬隊長ら5名はそり2台と樺太犬30頭でロス棚氷上を南進し,1月28日南緯80゜05′,西経156゜37′の地点に到着,付近一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し帰途についた。…

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