楊枝村(読み)ようじむら

日本歴史地名大系 「楊枝村」の解説

楊枝村
ようじむら

[現在地名]猪苗代町壺楊つぼよう

壺下つぼおろし村の東にあり、川東組に属した。東は楊枝峠(中山峠)を境に安積あさか中山なかやま(現郡山市)二本松街道が通り、同街道の駅所であった。楊枝峠は会津藩と二本松藩との藩境にあたり、当地は交通上・軍事上の要所となった。元来は壺下村地内であったが、「新編会津風土記」によると壺下村・中山村間の山中には人家がなく、往来の者が難儀したために蒲生氏郷が慶長二年(一五九七)当地を開き百姓を住まわせ、鉄砲二挺を預け置き、五〇石の年貢を免じたのが草創という。もとは楊枝柳ようじやなぎ村と称したが、のち柳の字を省き楊枝村としたという。


楊枝村
ようじむら

[現在地名]紀和町楊枝

小船こぶね村の南、熊野川(新宮川)と支流楊枝川との合流点にある。集落は熊野川に面する。中世は花井けい庄の内であったと考えられる。地名は当村浄楽じようらく寺境内の薬師堂にある文安元年(一四四四)の棟札に「楊枝」、慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「ミつの村内やうじ村」とみえる。新宮領で三之村組に属する。近世初期の家数三一(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)。享保六年(一七二一)新田検地が行われた(「新田畑御改帳」徳川林政史蔵)。この一帯には鉱山があり、和歌山藩は当村に楊枝鉛山役所を置き、採鉱の指揮をとらせたが、安政五年(一八五八)新宮の水野氏に任せた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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