槇有恒(読み)まきありつね

精選版 日本国語大辞典 「槇有恒」の意味・読み・例文・類語

まき‐ありつね【槇有恒】

  1. 登山家。宮城県仙台出身。慶応大学卒業後欧米に留学。大正一〇年(一九二一)アイガー東山稜初登攀成功。本格的なアルプス登山技術を日本に紹介した。昭和三一年(一九五六)には第三次マナスル遠征隊長としてマナスル初登頂を成功させた。著「山行」「マナスル登頂記」など。明治二七~平成元年(一八九四‐一九八九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「槇有恒」の意味・わかりやすい解説

槇有恒
まきありつね
(1894―1989)

日本に近代登山を導入した登山家。仙台市に生まれる。12歳のとき父に連れられて富士登山をしたことが生涯を通じての山との関係の始まりとなった。慶応義塾大学在学中に慶大山岳会を設立、1917年(大正6)法学部卒業後、オックスフォードプリンストン、ベルン各大学に留学した。21年アイガー東山稜(さんりょう)初登攀(とうはん)に成功し、日本人登山家の存在を世界に印象づけた。帰国後、アルプスの岩登り氷雪登攀の技術を伝えて日本の登山界の発達に大きく貢献した。25年日本初の海外遠征登山隊を率いてカナディアン・ロッキーズのアルバータ山初登頂。56年(昭和31)第三次マナスル隊隊長として今西寿雄(ひさお)隊員らの登頂を成功させた。8000メートル級の処女峰の日本人による初の登頂であり、日本に登山ブームのおこるきっかけとなった。第4代(1944~46)、第7代(1951~55)日本山岳会会長。日本、スイス、アメリカ、カナダ各山岳会名誉会員。仙台市名誉市民。文化功労者。

[徳久球雄]

『槇有恒編『マナスル登頂記』(1956・毎日新聞社)』『槇有恒著『わたしの山旅』(岩波新書)』

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20世紀日本人名事典 「槇有恒」の解説

槇 有恒
マキ ユウコウ

大正・昭和期の登山家 元・日本山岳会会長。



生年
明治27(1894)年2月5日

没年
平成1(1989)年5月2日

出生地
宮城県仙台市

学歴〔年〕
慶応義塾大学法学部〔大正6年〕卒

主な受賞名〔年〕
文化功労者〔昭和31年〕,産経児童出版文化賞(第6回)〔昭和34年〕「ピッケル思い出」,勲三等旭日中綬章〔昭和42年〕,仙台市名誉市民

経歴
近代アルピニズムの開拓者、紹介者。大正4年慶大在学中に恩師鹿子木員信とともに慶大山岳会を設立。7年米英スイス(コロンビア大、オックスフォード大、ベルン大)に遊学。10年アイガー東山稜初登攀、14年アルバータ(カナダ)初登頂。その後、塩水港精糖取締役、南洋拓殖理事に。昭和19〜30年にかけ2回日本山岳会会長を務める。31年第3次マナスル登山隊長として登頂に成功。同年文化功労者、仙台市名誉市民となる。著書に「山行」「マナスル登頂記」「ピッケルの思い出」「わたしの山旅」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「槇有恒」の意味・わかりやすい解説

槇有恒
まきありつね

[生]1894.2.5. 仙台
[没]1989.5.2. 神奈川
登山家。 1917年慶應義塾大学卒業。アメリカ,イギリス,スイスに留学し,新しい登山技術を日本に紹介し,近代登山の発展に大きく貢献した。 1925年カナダのマウントアルバータ (3619m) の初登頂に成功し,次いで 1956年第3次日本マナスル登山隊の隊長としてネパールに遠征,世界有数の高峰マナスル (8125m) 初登頂を成し遂げた。同 1956年文化功労者として表彰された。主著『山行』 (1923) ,『マナスル登頂記』 (1956) ,『ピッケルの思い出』 (1958) ,『私の山旅』 (1968) 。日本人初の英国山岳会員。

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367日誕生日大事典 「槇有恒」の解説

槇 有恒 (まき ありつね)

生年月日:1894年2月5日
大正時代;昭和時代の登山家。日本山岳会会長
1989年没

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