権現岳城跡(読み)ごんげんだけじようあと

日本歴史地名大系 「権現岳城跡」の解説

権現岳城跡
ごんげんだけじようあと

[現在地名]庄内町龍原

せり川が西から東に湾曲して大分川に合流する辺り、右岸断崖上の字猿渡さるわたりにあった大友庶家狭間氏の居城。狭間家譜(狭間文書)の初代直重の条に、阿南あなん龍原たつはる村権現岳に在城とみえる。「狭間家略履歴」も同氏代々の居城を権現岳とする。天正一四年(一五八六)一二月、島津勢は狭間山城守鎮秀の籠る権現岳城に押寄せたが、「難所ノ高山」であったため数日の包囲で終わっている。山続きには支城つばめ城も築かれていたという(薩藩旧記雑録・豊後国志)

〔狭間氏〕

藤姓大友氏庶家で、初祖は大友親秀の四男直重。母は阿波藤内左衛門尉娘。文永の役の恩賞地大分郡阿南松富まつとみ名を得て土着した。松富名は狭間はさま村ともよばれており、名字の地とした。豊後国弘安図田帳によれば、阿南庄八〇町の地頭職を守護所と三代直親(直重の孫)が帯し、ほかに松富名地頭職を帯している。元弘三年(一三三三)鎮西探題攻めに参陣した四代政直は本貫地狭間南方地頭職を安堵され、恩賞として北条泰家の所領豊前御沓みくつ(現院内町)地頭職を与えられた。


権現岳城跡
ごんげんだけじようあと

[現在地名]小長井町 遠竹名

権現岳(一〇二メートル)に築かれた中世の城跡。鎌倉中期に鶴田遠江守が居城、肥前藤津ふじつうら(現未詳)の城主北島藤宇右衛門との戦で敗死したとされ、その時期を七〇〇年以前とも、四〇〇年以前ともいう(「北高来郡誌」など)。天正五年(一五七七)西郷氏は龍造寺隆信侵攻に対して深堀純賢の仲介で和議に持込むが、一〇月一四日船越ふなこし(現諫早市)にいた遠岳尭増らは西郷一門二六人の一人として龍造寺氏に起請文(諫早市史)を差出している。同一二年一〇月一六日鍋島直茂に提出した原左京亮純英等連署起請文(佐賀県立図書館蔵)に伊佐早西郷氏一門としてみえる遠岳治部少輔尭運も当地を拠点にしていた者であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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