橋津村(読み)はしづむら

日本歴史地名大系 「橋津村」の解説

橋津村
はしづむら

[現在地名]羽合町橋津

宇野うの村の西、橋津川河口に位置する。うまノ山の西麓に集落が形成され、南の上橋津村に続く。橋津御蔵が置かれ、廻米をはじめ諸物資の流通拠点で、伯耆街道の宿駅にも指定された。江戸時代前期にはみなと村・湊宿とよばれ(正保国絵図など)、郷帳類では同村名で幕末に至る。ただし江戸時代中期以降は橋津村と通称されるようになり、嘉永七年(一八五四)には領内限りで橋津村に改称された(在方諸事控)。また上橋津村に対して下橋津村ともよばれた。

「三代実録」貞観九年(八六七)四月八日条に「湊神」がみえ、当地の湊神社に比定される。中世は東郷とうごう庄のうち。正嘉二年(一二五八)一一月の東郷庄下地中分絵図の裏書に「橋津」とみえ、馬野うまの・伯井田とともに地頭・領家分の入交じっている所であった。同絵図には橋津の地名はみえないが、東郷池から流れ出た橋津川に架けられた橋(橋の中央を中分線が通る)近辺から、同川右岸に沿って二十数軒の在家が描かれ、この在家を中分するかたちで馬野から延びた中分線が引かれていることなどから、この近辺が橋津にあたると思われる。多数の在家が描かれるのは、橋津川に合流していた天神川によって伯耆東三郡の物資が当地に集積されたからであろう。橋津川の河口も広大で、川湊としての機能を有していたと考えられ、領家松尾まつお(現京都市西京区)はここから年貢輸送を行ったと思われる。同地は古代における伯耆国衙の国津であったとも推定されている。大永四年(一五二四)五月五日、「ハシツノサト」の渡那部八郎左衛門の所へ近江堅田本福かたたほんぷく(現滋賀県大津市)五世明宗が下向している。八郎左衛門は堅田西にしきりの関の代官であった弥太郎衛門の孫で、当地に拠点をもち、子息を出家させ、門徒四〇〇人ほどを抱えていたといい、因幡みぞくち(現鳥取市)の五郎衛門が開いた橋津・宇野二ヵ所の道場を押領したともいう(以上「本福寺門徒記」)。天文九年(一五四〇)尼子国久軍を迎え撃つべく馬ノ山近辺に出陣した武田山城守は軍勢を橋津口とわたり口に分けた。


橋津村
はしづむら

[現在地名]宇佐市橋津

和木わき村の南、宇佐台地の東端にあり、西は宇佐村、南は日足ひあし村。寄藻よりも川が村の南部を東流する。同川は途中、右岸に日足川を合せ、南東端で流れを変えて村の東端を北上する。村の東部は寄藻川の沖積地である。橋水とも記し、土地の古老たちは「はしゅず」と発音する。端の津の意であったか。丘陵部には狐塚きつねづか桝塚ますづかの各古墳群、穴井あない横穴群などがある。中世は封戸ふべ郷の内。永仁五年(一二九七)九月、封戸郷司田部信房は徳政による郷内田畠の打渡しを求めているが、このうち「アナウタ東ノヨリ」二段には「橋津又二郎入道売畢」、「サハタリ」五段には「又二郎入道知行」と記されている(「田部信房申状」日名子文書)。暦応三年(一三四〇)六月日の大神宇貞重申状(小山田文書)に「橋津入江屋敷二箇所」とみえ、大神(小山田)宇貞は同所などに対する熊井信直・河野通貞らの濫妨を停止するようにと幕府に訴えている。この訴えは認められ、翌四年閏四月一一日豊前守護少弐頼尚は守護代に対して深見五郎太郎とともに論所に臨み、苅跡を検見し、信直ら狼藉人を退けるよう命じている(「少弐頼尚書下」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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