正明寺村(読み)しようみようじむら

日本歴史地名大系 「正明寺村」の解説

正明寺村
しようみようじむら

[現在地名]福知山市字正明寺

福知山城下の西南方に位置する。この辺り一帯はむろ山の前面の台地で、旧洪積層の隆起扇状地である。村は台地上中央部にあり、一帯は「くろぶく」と称する火山灰性の黒土に覆われ、土壌はやせている。東南部に枝村室村、西南部に枝村市寺いちでら村がある。本村正明寺のほか室・市寺にも庄屋以下村三役が置かれていた。

中世は和久わく庄の地。江戸時代の正明寺村については「丹波志」に

<資料は省略されています>

とあり、また、

<資料は省略されています>

として「室・市寺・正明寺・小野脇・笹尾・岡右六ケ村新開、免之事以来迄三ツ取、延宝年中極也」という天和二年(一六八二)六月二三日付の藩主朽木稙昌の文書を載せる。


正明寺村
しようみようじむら

[現在地名]銚子市正明寺町

中島なかじま村の西にある。地内称讃しようさん寺跡に康応二年(一三九〇)銘の常総系板碑がある。延宝二年(一六七四)の裁許状(島田家文書)に村名がみえ、当村や芦崎あしさき四日市場よつかいちば三門みかど余山よやま赤塚あかづか三宅みやけなど九村は三川さんがわ(現飯岡町)など六村および八木やぎ村と野論となり、検使の派遣などがあり、境を確認し絵図を作成している。同六年当時は旗本馬場領(宮内家文書)。天和三年(一六八三)当村など五村は九村の入会野を五村のみの利用とするよう訴え出ている(同文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一一八石余で幕府領と旗本馬場領。


正明寺村
しようみようじむら

[現在地名]新穂村正明寺

潟上かたがみ村の南、田野沢たのさわ村の南西、西に青木あおき村と接する。小佐渡山地からの水を利用した畑がちの村。外畑そでばたけ山畑やまばたけの地名があり、その占める面積も多く、かつては焼畑や切替畑が主たる農耕であったと思われる。天正一五年(一五八七)二月一三日の藍原白鴎寄進状(剛安寺文書)によると、「青木之内昭明寺」が吉井よしい(現金井町)の地頭藍原氏より剛安ごうあん(現金井町)へ寄進されており、かつては青木村の一部とみられる。元禄七年(一六九四)検地帳(正明寺区有)では田二七町三反余・畑一〇町八反余、名請人七一人。地名は一四一筆。現新穂村を構成する近世村中では上田の占める割合など最低で、石盛も少ない。


正明寺村
しようみようじむら

[現在地名]刈羽村正明寺

下高町しもたかまち村の南。東は曾地そち新田、西は荒浜あらはま村、南は下大しもおお新田(以上現柏崎市)伝承によると、開拓者小国源左衛門正明が美也咲みやのさき(場所不明)に居を構えたのを始めとする。飛砂の害で寛文二年(一六六二)宮田みやでん(現在地の南)に移った。しかし低地のため水害にしばしばあい、文政二年(一八一九)に現在地に移ったという(刈羽村誌)正保国絵図に高二二六石余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では高二二四石九斗余のほか同所新田高一七石三斗余がある。宝永六年(一七〇九)に大半が旗本安藤内蔵助領となる。残りは白河藩領、桑名藩預を経て明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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