正明寺(読み)しようみようじ

日本歴史地名大系 「正明寺」の解説

正明寺
しようみようじ

[現在地名]姫路市五軒邸二丁目

江戸時代の上寺かみてら町のほぼ北端で通りの東側に位置する。天台宗、姫路山と号し、本尊は薬師如来。康治二年(一一四三)開基姫道ひめじ村に建立され、中世は姫道(姫路)称名しようみよう寺と号した。声明寺・称明寺とも記し、姫地(姫道)道場ともよばれた(正明寺文書)。道について「峯相記」は、正覚坊といい比叡山で学道を極めた天台宗の碩才であったとし、播州増位山随願寺集記(随願寺蔵)には、大江匡房の子で随願ずいがん寺一七代長吏となった道が康治年中に称名寺を建立したとする。

その後は盛衰のためか不明な点が多いが、建長元年(一二四九)七月日の播磨国司庁宣案(正明寺文書、以下同文書の場合は省略)に「姫道山称名寺念仏三昧条々」とあり、天台宗の念仏三昧の道場として建立されたことがわかる。寺域は南北三町・東西二町余、面積六町余であった。


正明寺
しようみようじ

[現在地名]日野町松尾

松尾まつお北部の山中にある。法輪山と号し、黄檗宗。本尊は千手観音。享保一四年(一七二九)の正明寺記(寺蔵)などによると、聖徳太子創建と伝え、元亀年中(一五七〇―七三)の兵乱で寺運衰微したが、近世初期、永源えいげん(現滋賀県永源寺町)寺主一糸文守を迎えて再興を図った。再興半ばにして一糸が没したため、一糸法孫の如雪文岩、次いで寛文四年(一六六四)萬福まんぷく(現京都府宇治市、黄檗宗総本山)西堂の龍渓性潜が招かれて入寺し、中興開山となった。龍渓は一六歳にして摂津普門ふもん(現大阪府高槻市、臨済宗妙心寺派)に入り、慶安四年(一六五一)には後水尾上皇により紫衣を許されている。


正明寺
しようみようじ

[現在地名]杉戸町鷲巣

江戸川右岸にある。宰住山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。真言宗寺院として創建されたと伝える。中興開基は深輪ふかわの関口家の祖とされる章翁長文で、本寺の下総国関宿せきやど(現千葉県関宿町)総寧そうねい(のち現同県市川市に移転)二〇世鉄尊長を中興開山に招いて曹洞宗に改宗したという。所蔵する最も古い文書として天正一三年(一五八五)の大中寺天嶺呑補法語がある。


正明寺
しようみようじ

[現在地名]山形市十日町三丁目

江戸時代城下町であった三日みつか町の北西部にある。水上山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀三尊。元徳元年(一三二九)是阿心勇人如国によって山形の北、七浦ななうらに開創されたが、永禄年中(一五五八―七〇)最上義光により現在地に移建されたという。七浦で発見された径一尺二寸の双盤鉦が寺宝として伝わるが、義光の子息が痘瘡を患った際、双盤鉦を頭上にかぶせたところ、三二粒の痘瘡で治癒したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「正明寺」の解説

正明寺

(滋賀県蒲生郡日野町)
湖国百選 社/寺編指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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