武井村(読み)たけいむら

日本歴史地名大系 「武井村」の解説

武井村
たけいむら

[現在地名]結城市武井

田間たま村の南に連なる台地上の村で、中央を日光東街道が南北に走る。村域南方の台地西縁部の香取前かとりまえA遺跡からは縄文前期・弥生後期の土器片が採集され、北方一・五キロにある田間権現たまごんげん遺跡とつながりがあるとみられている。

元亨元年(一三二一)八月の山河貞重寄進状案(金沢文庫文書)に「限北大町堺武井堺毛呂河堰面堀堺」「但堰代武井郷内田弐段加之」などとあり、武井郷が山川氏の支配下にあったことがわかるが、この武井郷は近世の武井村よりも南へ広がりをもっていたと想定される。


武井村
たけいむら

[現在地名]大野村武井

北浦東岸にあり、北は志崎しざき村、南は津賀つが村。村内を北浦に注ぐいし川が流れる。弘安大田文に「白鳥郷内中務四郎跡三十九丁二段少、二十七丁五段 志崎・武家村以下在之」とみえる。中世は常陸大掾氏の一族中居氏が支配し、武井城が築城された(大野村史)。応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「ぬかゝの津ならやま知行分」とあり、湖岸額賀ぬかがに津があった。


武井村
たけいむら

[現在地名]小山市武井

野田のだ村の東に位置し、東を西仁連にしにづれ川が南流する。「和名抄」記載の都賀つが高家たかべ郷の遺称地とする説がある。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に下郷分として「たけい」とみえ、伊勢役銭三貫八〇〇文を負担している。同二三年一二月二四日の足利義氏充行状(野田家文書)では小山領一一郷のうちとして野田左衛門大夫に宛行われているが、永禄三年(一五六〇)以後は小山氏が奪い返した(「喜連川家料所記」喜連川文書)


武井村
たけいむら

[現在地名]新穂村武井

大野おおの村の西、南は栗野江くりのえ(現畑野町)。武井保の遺称地。元禄七年(一六九四)検地帳(武井区有)では田三一町六反余・畑三町七反余の稲の単作地帯で、名請人は五一人。地名は一五六筆で、本城・外城などの地字がみえる。宝永三年(一七〇六)には大野川の番水のみでは田用水に不足するため、武井城跡付近に堤を設けた(新穂村史)。「佐州巡村記」では畑五町七反余に増加。戸口は三七軒・一〇九人。名主は大野村名主が兼帯することが多かった。大野川扇状地末端部に武井城跡がある。


武井村
たけいむら

[現在地名]新里村武井

村の北に位置し、鏑木かぶらき川が南流。先土器時代の武井遺跡山内出やまうちで古墳、武井廃寺塔跡などがある。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳によると田方二七六石余・畑方一六九石余。近世後期の御改革組合村高帳では幕府領二九六石余・陸奥泉藩領一六四石余・出羽松山藩領一二二石余、家数七一。文久四年(一八六四)の浄瑠璃入用勘定帳(武井区有文書)があり、二貫八六四文の経費を二一人で負担している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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