比企城館跡群(読み)ひきじょうかんあとぐん

国指定史跡ガイド 「比企城館跡群」の解説

ひきじょうかんあとぐん【比企城館跡群】


埼玉県比企郡にある城館跡。指定名称は「比企城館跡群 菅谷館跡(すがややかたあと) 松山城跡(まつやまじょうあと) 杉山城跡(すぎやまじょうあと) 小倉城跡(おぐらじょうあと)」。嵐山(らんざん)町菅谷にある菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人(ごけにん)として著名な畠山重忠の館跡。重忠が戦死した1205年(元久2)以降、15世紀後半にいたるまでの経過はよくわかっていない。都幾(とき)川と槻(つき)川の合流点北側にあり、中央やや南寄りに、長方形本丸を置き、その北側に二の丸・三の丸などを配置し、各郭(くるわ)を土塁・堀で防備。郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴がうかがえるが、本丸は単郭式の城館の面影をとどめており、鎌倉時代の菅谷館の中心部分と推定されている。中世館跡の遺構として数少ない遺跡であり、保存度もきわめてよいことなどから、1973年(昭和48.)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に、松山城跡、杉山城跡、小倉城跡を含めて比企城館跡群と名称変更された。吉見町南吉見にある松山城跡は、市野川がつくる低湿地帯に突き出すような丘陵上に築城され、室町時代から戦国時代にかけては激しい争奪戦にさらされた歴史をもつ。市野川の対岸平地になっており、現在の東松山市にあたる松山本郷には城下町も形成された。山上の本丸から尾根に沿って二の丸、三の丸が梯郭式に配置され、広大な空堀が城を囲っていた。嵐山町杉山にある杉山城は、市野川左岸の比高約20mほどの台地の上に築かれ、発掘調査の結果から山内上杉氏の時代に造られたのではないかとみられている。松山城と同時期に北条氏の属城となり、豊臣秀吉の小田原攻めの折に廃城になったと考えられ、本丸を中心に土塁と堀で防御された郭(くるわ)が取り巻き、土橋や馬出しの跡も良好に残っている。ときがわ町田黒にある小倉城は、北条氏の家臣である遠山光景の居城であったとされ、やはり小田原攻めの際に落城したという。比高約70mほどの山の上に2つの郭(くるわ)を築き、それを中心に複雑な郭が配置され、関東地方には珍しく、石積みが多用されている。小倉城の北約2kmには杉山城、東約1.5kmには菅谷城(菅谷館)という位置関係である。菅谷館跡へは、東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩約15分。松山城跡へは、武蔵嵐山駅から徒歩約25分。杉山城跡・小倉城跡へは、関越自動車道東松山ICから車で約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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