小倉城跡(読み)こくらじようあと

日本歴史地名大系 「小倉城跡」の解説

小倉城跡
こくらじようあと

[現在地名]小倉北区城内

むらさき川河口西岸の丘陵地に置かれた平城。戦国末期から江戸期にわたり、勝山かつやま城・勝野かつの城ともいわれた。関門海峡を挟む九州の喉元に位置する要所で、中世より重視され、近世初頭にかけての毛利氏、次いで細川氏・小笠原氏と在城し、小倉領経営の政庁として幕末期に至る。

〔中世―毛利氏の時代〕

 中世の小倉城は、近世初頭細川氏が築城の小倉城の西曲輪辺りにあったといわれる。観応三年(一三五二)三月二三日の宗像資村軍忠状写(小野文書/南北朝遺文(九州編)三)に小倉城とみえる。交通の要衝を抑える地として当城が重視されるのは戦国期以降で、大友氏と北部九州を争う毛利氏は永禄一二年(一五六九)本州赤間関あかまがせき(現山口県下関市)との通路を確保すべく、小倉津に平城を築城、南条勘兵衛らを在番させた(「宗像記追考」史一〇―二)。「於小倉津俄一城被仰付」たため築城に際して城壁代りの「掻楯板」に長門国一宮住吉神社(現下関市)領に流れ着いた寄船を用いるなど急拵えの城であったらしい(同年四月二〇日「毛利輝元袖判毛利氏奉行人連署書状」住吉神社文書/長門国住吉神社史料)。しかし同年末の豊芸和睦により、以後小倉城は高橋氏の支城になる。近世の小倉城西側にある内堀と三の丸との間に南北に延びる深さ五メートル以上、幅約一〇メートルもある巨大な中世の堀が出土している。天正三年(一五七五)三月一〇日小倉を訪れた島津家久は「こくらの町ニ着、高橋殿の館一見」したと記す(島津家久上京日記)。同一四年の豊臣秀吉九州出兵では小倉城は秀吉軍先勢の攻撃目標となり、一〇月四日毛利氏を中心とした秀吉軍が小倉城を攻略(同年一〇月一四日「羽柴秀吉書状」吉川家文書/大宰府・太宰府天満宮史料一六)、その後小倉城には豊臣秀勝が在城した(天正一五年か、三月一六日「豊臣秀吉朱印状」黒田文書)。九州平定後、同年五月島津氏降伏に伴い論功行賞が行われ、高橋元種を日向高鍋たかなべ(現宮崎県高鍋町)に移し、当城に豊前国規矩きく田河たがわ両郡を与えられた毛利勝信(森吉成)が入城。小倉城の下屋敷からは勝信時代の金箔押し鬼瓦の破片や、自然石を野面積みした石垣が発見された(小倉城調査報告書「小倉城」)。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦では小倉城は黒田如水により攻略・接収されたという(豊後陣聞書)

〔細川氏の築城〕

 慶長五年の関ヶ原の戦で毛利勝信は西軍に荷担、小倉城は中津の黒田孝高に占領された。

小倉城跡
おぐらじようあと

[現在地名]玉川村田黒 城山

田黒たぐろの北部、都幾とき川合流点よりつき川を二キロほどさかのぼった山地尾根上に位置する戦国期の山城。県指定史跡。「風土記稿」には「遠山右衛門大夫光景カ居城ノ蹟ナリト云、四方二町許ノ地ニシテ、東北ノ二方ハ都幾川槻川ノ二流ニ臨ミ、西南ハ山ニ添ヒテ頗ル要害ノ地ナリ」と記される。しかし、同時代の文献史料にはみえず不明な点が多い。城主とされる遠山氏については、小田原北条氏家臣である遠山氏との関係を指摘する説もある。標高一三八メートルほどの上尾根の二つの郭を中心に小さな郭を同心円状に連続して複雑に組合せて配置した構造で、小口や郭には結晶片岩の平石の石積みを用いていることが特徴。

小倉城跡
おぐらじようあと

[現在地名]宇佐市四日市

四日市の南西部、小倉池に隣接する同池北方丘陵(狐塚山)上にあったが、同地域がミカン園として造成されたため、遺構は破壊されたものと考えられる。肥前から当地に来住した渡辺氏代々の居城といわれ、別名四日市切寄ともいう。城主であった渡辺氏が当地にいつ頃来住したかについては「四日市村年代記」では明徳年中(一三九〇―九四)、「宇佐郡地頭伝記」では天文年中(一五三二―五五)とするなど諸説がある。同氏は初め大内氏、のち大友氏に従った(「四日市村年代記」など)

小倉城跡
こぐらじようあと

[現在地名]今市市小倉

なめ川右岸のしろ(三九四メートル)の山頂にある中世の山城。北方は鶏鳴けいめい山塊へ連なる急峻な尾根。東は行川を直下に見下ろす。南のなだらかな傾斜面に六段の平坦部が造られ、山頂には空堀と土塁が残る。天文年間(一五三二―五五)に日光山桜本さくらもと坊宗安が南の抑えとして築いたとされ、三十講表白奥書(輪王寺文書)では「小倉小屋」と記す。

小倉城跡
おぐらじようあと

[現在地名]村大字小倉

盆地東北方にある。東山内衆小倉氏(長川流鏑馬日記、国民郷士記)の居城跡。南城は俗称城山、標高五三六メートル。北城は小字古城ふるしろにあり、標高五二一メートル。南城は北城よりも要害性に富み、空堀・土塁がよく残る。

小倉城跡
おぐらじようあと

[現在地名]三郷村大字小倉

北小倉の長峰が南に向かって突き出した尾根にある。標高九七〇メートル、比高二七〇メートル、小倉城は東北と西と南東の三方に向かって尾根を張り出している。西に張り出した尾根に二つの帯郭が築かれている。本城の平は南北一七メートル、東西二三メートルの五角形で、その南に二つの小さな郭をつくり、本城の四メートル下に幅二―七メートルの帯郭をめぐらせている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「小倉城跡」の解説

おぐらじょうあと【小倉城跡】


比企城館跡群(ひきじょうかんあとぐん)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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