比恵遺跡(読み)ひえいせき

国指定史跡ガイド 「比恵遺跡」の解説

ひえいせき【比恵遺跡】


福岡県福岡市博多区博多駅前にある集落跡。福岡平野北部の台地上に広がる弥生時代から中世にかけての遺跡。1984年(昭和59)の発掘調査で、南西から北東に延びる柵、柵に沿って並ぶ5棟の総柱建物群、その他2棟の総柱建物が発見された。2000年(平成12)にも、その遺構とほぼ対称に向かい合う位置に同様の柵と総柱建物群が発見された。柵は布掘りによって設置された2~2.5mの間隔で並ぶ3本1組の掘立柱列からなる特殊な構造で、回廊状の庇をもつ木塀と推定される。建物はすべて3間×3間の総柱建物で、柱間寸法は約2mのものが多く、高床式の倉庫と考えられる。これらの調査から、柵に囲まれた1辺約60mの方形区画、柵に沿って整然と並ぶ倉庫群、中央の空き地と倉庫群などの様子が明らかにされたことなどから、2001年(平成13)に国の史跡に指定された。出土遺物から、この施設は6世紀中ごろから7世紀にかけて存続したことが確認され、倉庫群の計画的な配置は、古代律令期の官衙(かんが)正倉につながるものであり、なんらかの公的な施設であったと考えられている。JR山陽新幹線ほか博多駅から徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「比恵遺跡」の意味・わかりやすい解説

比恵遺跡
ひえいせき

福岡市博多(はかた)区比恵字古賀、字小林一帯の台地上に所在する弥生(やよい)時代中期の集落遺跡。1938年(昭和13)ごろ区画整理時に大小五か所の環溝(かんこう)が確認された。もっともよく形を残す第1号環溝は、一辺約30メートルの方形の溝を巡らし、その内側に五軒の隅丸(すみまる)方形住居址(し)、二基の井戸、あるいは炊事場と考えられる遺構などが存在した。これによって当時の生活の単位を知ることができる。環溝の外側には甕棺(かめかん)墓地が営まれ、それはいくつかの環溝住居址群に共有された共同墓地と考えられる。このほか周辺に弥生時代遺跡が散在しており、この台地上において、環溝に取り囲まれた集団、共同墓地を共有するいくつかの環溝住居址群、さらにはそれを集合した台地上の集まり、の三段階の集落構成が知られる点が注目される。比恵遺跡の集落構成のあり方が弥生時代中期にかなりの普遍性をもつことは、その後各地で検証されている。

[高倉洋彰]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「比恵遺跡」の意味・わかりやすい解説

比恵遺跡
ひえいせき

福岡市博多区にある遺跡。弥生時代の環濠集落として知られていたが,1980年代に行われた調査で,7世紀中頃の7棟の倉庫群と柵状の遺構が確認された。倉庫は掘立柱のものであり,その床の面積は 17~28m2ほどで,通常の集落の倉庫に比べるとかなり大きいが,古墳時代鳴滝遺跡法円坂遺跡の倉庫に比べると小型である。柵状の遺構は3列の柱穴列があるもので,倉庫を取巻く塀のようなものであったと推測されている。この遺跡を日本書紀の「那津官家」跡とする説も出されている。

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世界大百科事典(旧版)内の比恵遺跡の言及

【福岡[市]】より

…福岡県北西部の県庁所在都市。九州の政治・経済・文化の中心をなす。1889年市制。1972年政令指定都市となり中央,博多,東,西,南の5区を設置,82年に西区を城南,早良(さわら),西の3区に分けて7区制施行。人口128万4795(1995)。市域は福岡平野の大半を占めて小呂(おろ)島,玄界島,能古島(のこのしま)の3島も含み,南端は脊振((せふり))山地で佐賀県に接する。朝鮮半島や中国に近い天然の良港,博多湾に臨む大陸交通の要衝で,古く那津(なのつ)と呼ばれた博多は大宰府の外港,遣隋使や遣唐使の発着港,貿易港として長く大陸文化輸入の門戸であった。…

※「比恵遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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