永井隆 ながい-たかし
1908-1951 昭和時代の医学者。
明治41年2月3日生まれ。母校長崎医大の物療科部長のとき放射線障害をおう。さらに昭和20年8月9日の原爆で被爆するが,負傷者を救護。21年教授。カトリック教徒として原爆廃止をいのり,病床で「長崎の鐘」「この子を残して」などを口述した。昭和26年5月1日死去。43歳。島根県出身。
【格言など】白ばらの花より香り立つごとくこの身をはなれ昇りゆくらん(辞世)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
永井隆【ながいたかし】
医学者。島根県生れ。長崎医大卒業,1940年同助教授となり,レントゲン科の責任者。1945年5月ころから放射線障害が現れ始め,8月9日原爆投下で夫人が死亡,自身も放射能による骨髄障害を受けた。闘病生活を送りながら原爆症患者を治療,カトリック信者としての生活記録《長崎の鐘》《この子を残して》などを著す。
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