出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…隋の煬帝(ようだい)は,608年(大業4),河南省武陟県あたりで,黄河が沁水(しんすい)を経て衛河に入り涿郡(郡治は現在の北京)にいたる運河を開いた。この全流を永済渠(えいせいきよ)というが,北方と洛陽を結ぶ漕運上の主要水路となるとともに,軍事上の重要水路ともなった。【河野 通博】。…
…そこで都の長安から渭河に沿って広通渠,淮河(わいが)と長江(揚子江)とを結ぶ山陽瀆(さんようとく),黄河と淮河とを連ねる通済渠をつぎつぎに開いて,都から長江まで水路を直通させた。さらに黄河から北へ今日の天津付近まで永済渠を,長江から南へ今日の杭州まで江南河をつくったので,中国の東部を縦貫する大運河の骨格ができ上がった。通済渠はのちに水路を一部変更したが,これを実際に漕運に活用したのは唐代からである。…
…この水路は引き続き唐・宋時代まで利用された。608年には永済渠が開かれたが,これは沁水(しんすい)を南へ黄河まで導き,そこから北へ今の衛河の線に沿って涿(たく)郡(北京市南西)に達したもので,高句麗征伐のための物資輸送が目的である。611年煬帝(ようだい)は江都から山陽瀆,通済渠,永済渠を通って涿郡まで行った。…
…文帝が女婿柳述らのすすめで再び楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある。 煬帝は弟漢王楊諒の反乱を鎮圧するとすぐ,大業の年号にふさわしい大土木工事に着手,通済渠(黄河~淮河(わいが))をはじめ,608年(大業4)の永済渠(黄河~涿郡(たくぐん)),610年の江南河(長江(揚子江)~銭塘江)開削を行い,前代の山陽瀆(邗溝(かんこう),淮河~長江)を改修し延々1500kmの大運河を完成した。長安から江都(揚州)に至る運河沿いには寿安県の顕仁宮ほか40余の離宮を置き,のべ200万人を動員し修築した東都洛陽には全国から数万家にのぼる富豪を強制移住させ,近郊には江南からの物資を貯蔵する巨大な洛口・回洛両倉を設け経済中心の都市にしたてた。…
※「永済渠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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