江波村(読み)えばむら

日本歴史地名大系 「江波村」の解説

江波村
えばむら

[現在地名]中区江波本えばほん町・江波東えばひがし一―二丁目・江波南えばみなみ一丁目・江波西えばにし一丁目・江波二本松えばにほんまつ一―二丁目・舟入南ふないりみなみ六丁目

江波新開の南に位置し、東はほん(太田川)河口、西は小屋こや(天満川)に臨み、南は海中に突き出す。沼田ぬまた郡に属した。毛利氏の広島開府の頃は江波島として、かみ(皿山)しも(江波山)丸子まるこ山の三山が鼎立しているのみで、古くは名原なばら島・石切いしきり島・長門ながと島ともいわれた。

毛利氏は厳島社を深く崇敬したが、参詣の折その乗船場として江波山の北側辺りが利用されたと伝え、また慶長一九年(一六一四)福島正則は大坂冬の陣のとき、「前かたより広島えばに有之、材木、竹取上せ候」よう命じている(福島正則書状「新修広島市史」所収)。元和五年(一六一九)の安南郡絵図に江波港に向けて航路が描かれ「瀬戸より七里」の記載があり、江波島の東岸に大坂および伊予方面よりの航路が開けていたことが知られる(広島市史)


江波村
よなみむら

[現在地名]砺波市高波たかなみ

荒屋あらや村の西にあり、西は七社しちしや(現小矢部市)、北は矢部やべ(現同上)。庄川扇状地の扇端部の標高二五―三〇メートルの地帯に位置し、東を山王さんのう川、西を岸渡がんど川が蛇行して流れる。伏流水が数ヵ所で湧出する。矢部村にかけての一帯には湧水をたたえた湖がいくつもあり、その一つ日美ひみノ江の南に位置したことから江南村と称し、のちに江波と書くようになったと伝える(村名起原沿革)


江波村
えなみむら

[現在地名]用瀬町江波

安蔵あぞう谷の最奥に位置し、谷を登り詰め険所けんそ(嶮岨)峠を越えると美作国阿波あば(現岡山県阿波村)に至る。正嘉二年(一二五八)七月二三日の某譲状(因幡民談記)佐治さじ郷の南方(佐治川南岸)の南境として「えなみ」がみえる。藩政期の拝領高は二七石余。本免三ツ八分。江戸時代初期に屋住やずみ村との間に草山争論があり、宝暦一四年(一七六四)にも再燃している(在方諸事控)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高四二石余、竈数二五。


江波村
えなみむら

[現在地名]妻沼町江波

利根川右岸の氾濫原、曲流するふく川沿いの低地に位置する。福川を隔て西は上根かみね村、南は西城にしじよう村。天正一八年(一五九〇)九月の伊奈忠次知行書立(長崎県片山家文書)によると、おし(現行田市)松平家忠に一万石が宛行われたが、そのなかに「ゑなみ」とみえる。田園簿によると高四〇五石余、田方一〇町二反余・畑方三六町六反余、幕府領。天和元年(一六八一)下総古河藩領となり、貞享二年(一六八五)に上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)


江波村
えなみむら

[現在地名]宮崎村江波

小曾原おぞはら村の北にあり、四方を山に囲まれる。鯖江に通じる道に沿い、天王てんのう川が流れる。枝村は宮谷みやだに(越前国名蹟考)。宝徳元年(一四四九)八月一〇日付妙法院宮法印執達状(劔神社文書)に「越前国織田庄劔太神宮寺社領内江並村公文国近名之事」とみえ、つるぎ大明神(現織田町)の社領であった。天正四年(一五七六)九月二七日付山中村惣代等申状(同文書)には「劔大明神末社領所田畠山林等之事」として「弐拾石七斗 江波村 神田 九百七拾文 代同村 山二ケ所 同村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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