国指定史跡ガイド 「江馬氏城館跡」の解説
えましじょうかんあと【江馬氏城館跡】
岐阜県飛驒市の旧神岡町にある中世の城館跡。指定名称は「江馬氏城館跡 下館跡(しもやかたあと) 高原諏訪城跡(たかはらすわじょうあと) 土城跡(つちじょうあと) 寺林城跡(てらばやしじょうあと) 政元城跡(まさもとじょうあと) 洞城跡(ほらじょうあと) 石神城跡(いしがみじょうあと)」。江馬氏は北飛驒の吉城(よしき)郡高原郷を本拠とした中世豪族で、神岡町殿にあった下館はその本拠地の館として、高原川の河岸段丘上に位置する。背後の東側山稜に本城の高原諏訪城があり、北方の支城が土城、西方が寺林城と政元城、南東が洞城と石神城である。1974年(昭和49)から発掘調査が行われ、下館跡では建物跡や土塁跡、堀跡、庭園遺構が確認された。江馬氏は室町幕府の御家人であったことが判明しており、これらの遺構は、3代将軍足利義満の「花の御所」をモデルとして、自分の館を建設したことを推測させる。高原諏訪城は南端の東、南、西を川と急峻な斜面に囲まれ、土塁や腰曲輪(こしぐるわ)、堀切り、竪堀(たてぼり)を設けている。この山が城山と呼ばれているが、北方の稜線上にも平場や堀切りなどの遺構がある。高原郷の主要道は越中東街道だが、東に唐尾(からお)峠を経て越中と信州松本平を結ぶもう1本の鎌倉街道も重要な交通路であった。支城である土城、寺林城、政元城、洞城、石神城は、それぞれ街道筋をにらみながら、高原郷を取り囲むように配置されていた。1564年(永禄7)以降、江馬輝盛(てるもり)は武田信玄に属したが、1576年(天正4)以降は上杉謙信の軍門に下り、1582年(天正10)に輝盛が三木自綱(みつぎよりつな)に敗れて戦死すると、江馬氏は滅亡して高原諏訪城も落城した。江馬氏の城館は保存状況がよく、中世の城館の相互の関連を示すものとしても貴重であることから、1980年(昭和55)、国の史跡に指定された。2007年(平成19)には、会所、門、庭園が復元整備され、江馬氏館跡公園として公開された。下館跡へは、JR高山本線飛驒古川駅から車で約30分。