沢口村(読み)さわのくちむら

日本歴史地名大系 「沢口村」の解説

沢口村
さわのくちむら

[現在地名]住吉墨江すみえ四丁目・清水丘しみずがおか一丁目・沢之さわの町一―二丁目・南住吉みなみすみよし四丁目など

殿辻とのつじ村の南に位置する。村の西部阿部野あべの街道(熊野街道)が南北に通じており、集落はその周辺に位置している。「住吉松葉大記」によれば、昔遠里小野おりおのの北辺は一面の沢地で、当村はこの沢地の南の口にあったところから沢口といわれたという。「細川両家記」の享禄四年(一五三一)三月二五日の記事に「三好筑前守元長衆は住吉の沢の口、遠里小野に陣取給ふ」とみえる。この時三好元長は細川晴元と連合し、浦上掃部・細川高国の連合軍と戦っていた。また同書天文一六年(一五四七)七月二六日の記事にも「十七ケ所の諸勢住吉、遠里小野、沢の口へ陣替有」とある。


沢口村
さわぐちむら

[現在地名]大江町沢口

月布つきぬの川上流に大瀬おおせ川が合流する平地にある。西に青柳あおやぎ村があり、東は貫見ぬくみ村。大瀬川に沿って中沢口なかさわぐち道海どうかいの枝郷がある。最上氏領から元和八年(一六二二)以降幕府領。寛永検地の高二一六石余(最上記)正保郷帳では田方一五七石余・畑方五八石余・寺社領三石余。寛文一二年(一六七二)検地帳(惣持寺文書)では高三五三石余、うち田二七三石余・畑五六石余・屋敷一八石余・新田四石余・新畑二石余、反別は田一一町四反余・畑八町七反余・屋敷一町一反余・新田五反余・新畑九反余。


沢口村
さわぐちむら

[現在地名]二戸市安比あつぴ

安比村の南に位置。正保国絵図に村名がみえ、高五五石余。元禄十郡郷帳による〆高は田方九八石余・畑方一八石余、当村へ江牛えろす(現二戸郡浄法寺町)が入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高六七石余のみ。


沢口村
さわぐちむら

[現在地名]松之山町沢口

越道こえどう川右岸に位置し、西は三桶みおけ村、北は川を挟んで松口まつぐち村。正保国絵図に高五石余。天和三年郷帳では高七石三斗余、反別田五反余・畑屋敷二反余・山林三畝余・青苧畑三畝余で、漆木二本、家数一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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