河東郷(読み)かとうごう

日本歴史地名大系 「河東郷」の解説

河東郷
かとうごう

甲府盆地中央部、釜無川左岸にあった中世郷。「一蓮寺過去帳」によれば、永禄年間(一五五八―七〇)頃供養の言一坊に「河東」、同じ頃に逆修供養した衆一坊に「加藤村」と注記される。「鎌倉大草紙」は「甲斐国に加藤と申す在所あり、是は彼加藤入道妙法房の居所を後に在所の名と也」と記す。加藤入道妙法坊は加藤景廉で、景廉が治承四年(一一八〇)八月の石橋山の合戦に敗れたのち甲斐に潜伏したのは事実だが(「吾妻鏡」同年一〇月一三日条)、大草紙にある安田義定の討伐の功により甲斐に所領を与えられたという記事は「吾妻鏡」などにはみえず、当地の地頭であったかどうかは確認できない。下って応永年間(一三九四―一四二八)武田信長に従って活躍した加藤入道梵玄は下河東しもがとう(現玉穂町)永源えいげん寺の開基と伝え、上河東に河東玄賀屋敷が残るなど(甲斐国志)、この地域を拠点とした加藤氏がいた。「一蓮寺過去帳」に載る長禄元年(一四五七)一二月二八日に討死した河東右京、明応三年(一四九四)三月二六日に討死した加藤兵部少輔殿なども同族であろう。これら加藤氏の本拠となったのが当郷であったとみられる。


河東郷
かとうごう

現河東に比定される中世の郷。大治五年(一一三〇)一〇月二八日、散位平朝臣季将が「宗像宮内河東村太日光寺」で法華経一部八巻を書写し埋経している(宗像市山田出土経筒銘)。宗像宮内とは宗像社の社領の意味と考えられる。乾元二年(一三〇三)六月日の社領田代并立用以下目録と宗像社領公文所注進(ともに宗像社家文書惣目録/宗像大社文書二)にも河東がみえる。建武元年(一三三四)三月二〇日の雑訴決断所牒(同上)にも河東があるように、宗像社の社領として安堵されたと考えられる。「応安神事次第」戊本・癸本の永享九年(一四三七)三月七日の追補には、白馬出郷之次第と第一宮長日立用米事、第二・第三両宮長日御供立用米事に河東郷がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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