明治政府が戊辰(ぼしん)戦役中に出版した官版日誌類の最初のもので,創刊は慶応4年(1868)2月23日,終刊は明治10年(1877)1月22日の1177号である。日誌の内容は新政府の法令,人事,伺書への回答などであって,行政広報紙あるいは官報の前身ともみることができる。発行間隔は必要に応じて月数回から連日発行までさまざまであった。当初の印刷には木版整版と木活字が用いられ,数回分をまとめ書籍形式でも頒布された。版元は京都の御用書肆の村上勘兵衛で,遷都後は東京の須原屋茂兵衛の手に移っている。村上の回想によれば,政府の意図は外国の新聞に倣って毎日の決定事項を諸藩に令達することであった。第1号は半紙7枚のもので1000部を太政官に納入し,残部を2銭で市販し好評であったという。その後,《行在所日誌》《江城日誌》等の官版広報紙が相次いで出版されたが,いずれも短命に終わっている。
執筆者:平井 隆太郎
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…《官報》発行のため同年5月10日太政官(内閣)に文書局(初代局長平田東助)が設置されている。しかし《官報》は,系譜的には1868年2月23日明治新政府が京都で創刊した《太政官日誌》にさかのぼる。《太政官日誌》は77年1月まで続き1177号で中止。…
※「太政官日誌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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