日本歴史地名大系 「法成寺跡」の解説
法成寺跡
ほうじようじあと
藤原道長の建立した摂関政治期最大の寺院。現存しない。寺域は無量寿院供養願文(扶桑略記)に「鳳城東郊、鴨河西畔」、「栄花物語」に「東の大門に立ちて、東の方をみれば、水の面のまもなく、筏をさして、多くの
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔阿弥陀堂〕
法成寺の中心伽藍で、各築御堂仏壇、晩景帰宅」と記す。さらに二月二〇日に鋳鐘、同月二七日に九体阿弥陀像、観音・勢至各一体の遷仏の儀があった(同書)。阿弥陀堂は法成寺内の西寄りにあり、東を正面とする一一間の南北に細長い建物で(「小右記」寛仁三年七月一七日条など)、藤原行成筆「無量寿院」の扁額が掲げられた(「不知記」堂供養記)。堂内には金色丈六阿弥陀像九体・脇侍観音勢至両大士各一体・彩色四天王像各一体が安置された(「扶桑略記」同四年三月三日条)。「栄花物語」の「たまのうてな」は次のように記す。
三月一八日に先鋳の鐘の鋳直し、そして二〇日に試楽があり、二二日には御斎会に準じ、太皇太后・皇太后・中宮が参加して落慶供養が盛大に営まれた。請僧は、大僧正済信・深覚・院源をはじめ一六〇口を数えた(左経記・日本紀略)。阿弥陀堂は万寿二年(一〇二五)一〇月二五日に改建のため阿弥陀像九体を新造西堂に移渡したとの記事が「小右記」にある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報