波津村(読み)はつむら

日本歴史地名大系 「波津村」の解説

波津村
はつむら

[現在地名]岡垣町波津

はら村の北、湯川ゆがわ山の北麓に位置し、北は海(響灘)に面する。西は黒崎くろさき鼻を境に宗像鐘崎かねざき(現宗像市)、同じく湯川山から北西に延びる稜線を境に同郡上八こうじよう(現同上)。北端部の波津城はつしろ響灘に突き出した岬である。当村は高抱の浦方で、波津浦(「続風土記拾遺」など)・波津浦村(田圃志)ともよばれた。集落は本村小波津こはつおよび大波津おおはつ・湯川・小山こやま(「地理全誌」など)。なお「続風土記拾遺」は大波津を本村とする。天正六年(一五七八)六月一日の第一宮御宝殿御棟上之事置札(宗像大社蔵)によれば、宗像第一宮造営中における番匠や鍛冶など職人の木屋で消費される肴の調進に「波津浦大田浦加之」をはじめ、遠賀郡・宗像郡の諸浦があたっている。また宗像大宮司天正十三年分限帳(宗像郡誌)には宗像氏の支配下にある寺院五六ヵ寺の一つとして「四反大 波津浦真福寺」がみえる。小早川時代の指出前之帳では波津浦の田五町八反余(分米六二石余)・畠三町五反余(分大豆一四石余)。元和九年(一六二三)の黒田忠之浦并水夫等目録(松本家文書)によると、波津浦の水夫三〇・丸木船二三。慶長七年(一六〇二)の検地高九八石余。元禄五年(一六九二)には高一一六石余(田圃志)、石高書上帳案の郡帳高も一一六石余。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数一〇一(うち酒家一・麹家一)・人数四六一、馬二・牛七五(別本「続風土記附録」)


波津村
はづむら

[現在地名]相良町波津・波津一―二丁目

萩間はぎま川の下流右岸に位置し、東は福岡ふくおか町・相良町、西はその村、南西須々木すすき村。江戸時代初期までは萩間川が下流で二またに分れ、当村地内を駿河湾に注いでいた。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高三三九石余。元和九年(一六二三)代官遠山平右衛門はしん町の太郎兵衛に対し、波津の堤ヶ谷新田について田畑になるところは残らず開墾することを許している(「定」城下町相良区史)。寛永二一年(一六四四)須々木村との境の大久保柴間を甚左衛門が開発したため、代官が検分し両村立会いのうえ境界を確認している(名波家文書)。同年幕府直轄領から掛川藩預となった(掛川預一万石郷村覚)正保郷帳では田方二九九石余・畑方八五石余、掛川藩預、ほかに向上こうじよう(泰定庵か)領二石・牛頭天王(現飯津佐和乃神社)領一石八斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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