津堅村
ちきんむら
津堅島の南西にある。「遺老説伝」には往古、中城間切の喜舎場子という者が喜舎場嶽に上って東方海上を見渡すと一島があり、その島を開発したという説話がある。「おもろさうし」巻一四の二九には「つけん ゑはくすく/つけん せやくすく」とみえ、絵図郷村帳には西原間切の所属村として津堅島がみえる。琉球国高究帳でも同間切の津堅島とみえ、畠二〇三石余。里積記によれば畑のみで下の村位。「南島風土記」は向姓富島親方家譜に「天啓六年丙寅六月十六日、任島添大里間切津堅神谷地頭職」とあることから、当初津堅村は島尻の大里間切の管轄下にあり、その後西原間切、そして勝連間切に移ったとする。前掲家譜は伝わっておらず、大里間切に属していたことは確認できないが、「琉球国由来記」では勝連間切に属しているので、一七〇〇年代初めには西原間切から勝連間切に編入されていたとみられる。
「球陽」附巻尚寧王二七年(一六一五)条によれば、全興盛(俗名津堅盛則)は馬術に秀で、薩摩の島津義弘(惟新公)にも認められたその名声におごって津堅島の領有を欲した。法司毛鳳朝(読谷山盛韶)は古来一島を専領する者はいないとしてこの要求を却下、これを恨んだ興盛は乙卯の年(一六一五年)に至り鳳朝とその長子毛振
を讒訴したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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