青森県津軽地方に伝わる三味線とその音楽。本来は津軽民謡の伴奏に用いたが、梅田豊月(ほうげつ)、白川軍八郎、木田林松栄(きだりんしょうえ)、高橋竹山(ちくざん)らの名人によって、はでな曲弾きが加わり、独奏・合奏楽器として確立した。楽器は太棹(ふとざお)三味線よりやや大ぶりで、糸は一の糸から順に30、18、12などを用い(長唄(ながうた)の細棹三味線では15、13、12など)、一の糸は三の糸の倍以上の太さがある。三味線を立てて構え、厚手の重い撥(ばち)で一の糸を力いっぱいたたいてリズムを刻む。その間に三の糸を細かく掬(すく)う「スクイバチ」を多用して装飾音を加える。さらに左手は、親指を除く四指で糸をかき鳴らしてまで音をつくり、「オリャ」「ソリャ」「アリャ」などの掛け声も加える。こうして、力強く、激しく、その一方では繊細な独自の音色が生まれる。
現在の形態が津軽の芸人の間に広まった理由として次の三つがあげられる。(1)地理的条件 中央の文化や武家文化の影響が少なく、日本人古来の楽天的、情熱的な生き方が残った。加えて、東の南部地方に対する西の津軽という根強い対抗心があり、他と差をつけることに価値をみいだす気風があった。(2)演奏条件 聴衆が主として北海道のヤン衆(出稼ぎの漁師)のため、野外、飯場(はんば)、掛小屋などの悪条件下の演奏が多く、必然的に大音が要求され、さらに感覚より本能に訴えかける必要から強く激しい芸が求められた。(3)浪花(なにわ)節などの影響 明治後期~昭和初期の浪花節全盛時代に津軽地方で「じょんがら」「よされ」「おはら」のいわゆる「津軽三つ物」が浪花節の代用として流行した結果、興行や舞台演出にショー的要素が加わった。
なお、「津軽三味線」の名称が一般的になったのは、1956年(昭和31)ごろの三橋美智也(みはしみちや)と木田林松栄の曲弾きショーを初めとする。
[竹内 勉]
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