津高郡(読み)つだかぐん

日本歴史地名大系 「津高郡」の解説

津高郡
つだかぐん

和名抄」東急本・刊本に「豆太加」の訓がある。近代の訓は「ツダカ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。「和名抄」東急本・刊本は駅家うまや賀茂かも・津高・健部たけべの四郷をあげるが、高山寺本は駅家郷を欠く。令制の区分では四郷なら下郡、三郷なら小郡となる。宝亀七年(七七六)一二月一一日付の備前国津高郡津高郷陸田売買券(唐招提寺文書)には大領・少領の署名があり、小郡ならば郡領のみであることから、当時四郷の下郡であったことは確実である。式内社としてはかも神社・宗形むなかた神社がある。郡の南部を山陽道が通り、「延喜式」兵部省には駅馬一四疋を置く津高駅家が記されている。東はほぼ旭川を境に赤坂あかさか郡、ささ川を境に御野みの郡、南は海、西は備中国賀陽郡、北は西から美作国真島ましま郡・久米くめ郡。地形的には二つの地域からなる。南部地域は現岡山市の笹ヶ瀬川西岸部から備中国境までの海に面する地域で、北部地域は辛香からこう峠を越えた旭川西岸部の現御津みつ郡御津町・建部たけべ町・加茂川かもがわ町、久米郡あさひ(一部)の地域である。自然地形からすると一つの世界を形成しているとはいえない。

縄文晩期から弥生中・後期の石器や土器が層位的に検出された備前原びぜんはら遺跡(御津町)吉備津彦の墓の伝承をもち全長約一二〇メートルの前方後円墳で特殊器台形埴輪を伴う中山茶臼山なかやまちやうすやま古墳(岡山市)、全長約一四〇メートルの前方後円墳である尾上車山おのうえくるまやま古墳(同上)、前方後円墳一基を含む一宮天神山いちのみやてんじんやま古墳群(同上)などがある。また白鳳期創建の富原北とみはらきた廃寺(同上)や同廃寺南の津高駅家あるいは郡家と推定されている地域のほか、その西方約二〇〇メートルのところに同所出土の瓦等を焼成した瓦窯跡などがある。古墳時代以来当郡の主要遺跡が郡域の南辺に集中していることは注目すべきことである。

〔古代〕

前述のように当郡は地形的には異なる二つの地域からなるが、なぜこのような郡域が形成されるにいたったのかは明らかでない。前掲陸田売買券によると、大領は薗臣(名欠)、少領は三野臣浪魚であった。いずれも吉備一族を構成した有力氏族であるが、八世紀段階での両氏の本拠としては、薗臣は備中国下道郡曾能その(現吉備郡真備町岡田を中心とした地域)、三野臣は御野郡御野郷(現岡山市三野を中心とした地域)を想定することができる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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