唐招提寺(読み)トウショウダイジ

デジタル大辞泉 「唐招提寺」の意味・読み・例文・類語

とうしょうだい‐じ〔タウセウダイ‐〕【唐招提寺】

奈良市にある律宗の総本山。開創は天平宝字3年(759)、鑑真がんじんの開山で、ここに戒壇を設け律宗の根本道場とした。金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、経蔵・宝蔵などは奈良時代の建物で国宝。薬師如来像・鑑真和上わじょう坐像(国宝)のほか多数の文化財を所蔵。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産文化遺産)に登録された。招提寺。

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共同通信ニュース用語解説 「唐招提寺」の解説

唐招提寺

奈良市五条町にある律宗総本山。唐の高僧鑑真がんじん(688~763年)が親王の旧宅を朝廷から譲り受け、私寺として759年に創建した。屋根の両端にそびえる鴟尾しびが知られる金堂(国宝)は鑑真の没後に建てられたが、奈良時代の様式を伝える金堂としては唯一の現存例とされる。鎌倉、江戸など各時代に大修理され、2001~09年にかけては「平成の大修理」が行われた。

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精選版 日本国語大辞典 「唐招提寺」の意味・読み・例文・類語

とうしょうだい‐じタウセウダイ‥【唐招提寺】

  1. 奈良市五条町にある律宗の総本山。天平宝字三年(七五九)唐僧鑑真(がんじん)が創建。東大寺の戒壇院に対し律宗研修の道場として重きをなした。金堂・宝蔵・経蔵は創建当初のもの、また講堂は平城宮の朝集殿を移築したもので鼓楼とともに国宝。また、金堂に安置する本尊の盧舎那仏坐像のほか千手観音立像・四天王像・鑑真和上坐像などが国宝に指定されている。法隆寺のかわりに南都七大寺の一つとすることがある。招提寺。唐寺。律寺。

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日本歴史地名大系 「唐招提寺」の解説

唐招提寺
とうしようだいじ

[現在地名]奈良市五条町

秋篠あきしの川の西、平城京右京五条二坊の位置にあたる。律宗。本尊盧舎那仏坐像。唐の高僧鑑真の開山。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔大和上鑑真〕

鑑真については「唐大和上東征伝」に詳しいが、天平五年(七三三)伝律授戒の高僧をわが国に招請すべく唐に遣わされた大安だいあん(現奈良市)の栄叡、興福寺の普照の熱意により渡日を決意、幾多の障害や海難を経、失明の不運の中に六度目の渡海にようやく成功し、天平勝宝五年(七五三)一二月二〇日、薩摩国に到達した。翌六年四月に東大寺大仏殿前に戒壇を設けて、天皇・皇后・皇太子以下に授戒の儀が行われた。天平宝字元年(七五七)一一月二九日に勅して、備前国の墾田一〇〇町を賜っている。鑑真はこの頃東大寺唐禅とうぜん院にいたが、墾田は永く唐禅院の供養料に施されたものである(続日本紀)。翌二年八月一日、鑑真の労苦に対し、僧綱の任を解き大和上と恭敬供養されることになる(同書)。かくて故新田部親王の旧宅を賜い、翌三年八月一日ここに戒院を設け、唐律招提とうりつしようだい寺と称した(招提寺建立縁起)。唐招提寺所蔵の戒律伝来記(国指定重要文化財)に「以奈良城右京五条二坊内新田部親王家四箇町地并坊舎及備前国水田一百町以永施与大和上用為宿院及供料」と記される。「延喜式」玄蕃寮では招提寺として十五大寺の一つとされている。

〔堂舎の造営〕

唐律招提寺は唐招提寺の初めであるが、当初から堂舎が建てられたものではない。むしろ旧地主の屋舎がいくらか残っていて、戒院に使われていたことが考えられる。護国寺本「諸寺縁起集」は承和二年(八三五)に成立した「招提寺建立縁起」を収録しているが、それによると平安時代の初め頃には概略次の建物があった。

<資料は省略されています>

これによって当時の堂塔の有様を知りうるが、塔についての詳しい記載はない。また西塔跡と伝える遺跡はあるが、文献上は明らかでない。

諸堂の造営では、平城宮東朝集ひがしちようしゆう殿(現講堂)を移したのが金堂造営よりも早かった。「唐大和上東征伝」は僧忍基が天平勝宝七年春に講堂の梁が折れるのを夢に見て、大和上遷化の相であると知り、弟子らと相謀って鑑真の寿像を造ったと記している。天平勝宝七年をさかのぼることいくばくもない時期に平城宮より移築され、ここが戒律の重要な道場であったと考えられる。東塔の造立について、「日本紀略」に弘仁元年(八一〇)四月に散位外従五位下江沼小並らを遣わして造ったとあるから、かなり遅れて造営されたもので、おそらくこの頃に伽藍が一応整備されたものであろう。

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改訂新版 世界大百科事典 「唐招提寺」の意味・わかりやすい解説

唐招提寺 (とうしょうだいじ)

奈良市五条町にある律宗の総本山。古くは唐律招提寺ともいわれ,単に招提寺ともいう。唐僧鑑真の開基にかかり,今日,金堂,講堂,鐘楼,鼓楼,東室,経蔵,宝蔵,閼伽井(あかい)(醍醐井)などの伽藍が白砂青松の中に規矩整然とのこり,奈良時代寺院の面影を今に伝える唯一の寺である。12年の歳月と6回目の渡航によって伝戒の初志を貫徹しようとした鑑真とその随伴の諸僧は,東大寺唐禅院に留住していたが,758年(天平宝字2)僧綱の任より解放された鑑真は,平城右京5条2坊にあった新田部親王の旧宅の地を拝領し,757年に賜った備前国の水田100町を財源として当寺を創建した。講堂は平城宮の朝集殿を移建し,食堂は藤原仲麻呂の寄進にかかる。763年鑑真は入寂したが,以後如宝,豊安(ぶあん)などが伽藍の整備に当たり,金堂は宝亀年間(770-781)の造営とする説が有力であり,もと遣唐大使藤原清河家からも堂宇の施入があるなど,多くの喜捨が寄せられた。ことに776年に寺封50戸が施入されたことは,私寺から官寺への移籍を示すもので,この寺封50戸は812年(弘仁3)にも引き続き施入された。810年には金堂の東南に五重塔が創建され,寺観は一応整備をみたようである。

 平安時代中期以降は戒律護持の衰退により寺勢は衰微したが,1140年(保延6)ごろには金堂,講堂,宝蔵,御影堂,阿弥陀院が存在していた。一方,中川(なかのかわ)寺の実範は戒律の復興を痛感して当寺を訪ね,有名な《授戒式》(《実範式》)を撰述した。鎌倉時代,笠置寺の解脱房貞慶は浄土教に対して釈尊信仰を提唱するかたわら戒律復興に挺身したが,当寺に釈迦念仏会を創始し,1203年(建仁3)に大会を行った。中興の祖と称せられる覚盛(かくじよう)(1194-1249)は四条天皇に菩薩戒を授けたが,43年(寛元1)に舎利会を創設して鑑真の遺徳を高揚し,律書を講じて戒律の流布と子弟の育成に当たった。法灯を継いだ証玄(1220-92)は諸伽藍の修理をはじめ,講堂の弥勒仏や清凉寺式釈迦立像の造像を行うかたわら,戒壇を創設し,平安時代以降の衰退した寺観の整備を大規模に行った。

 南北朝以降は諸大寺と同様に寺領は退転し収奪され,近世に至って,当寺で受戒した護持院隆光の助援により,将軍徳川綱吉や桂昌院の庇護で諸堂舎の修理が施工され,1698年(元禄11)には戒壇院が再興された。しかし一方,地震,雷火などで焼失したものも多く,なかでも1802年(享和2)には五重塔や鎮守社が焼失した。明治から昭和に至って諸堂の修理保存が行われ,1941年教学振興を図って律宗戒学院が設立され,63年には旧興福寺一乗院の宸殿を移した御影堂が造立されたほか,南大門,収蔵庫が再興・新築された。日中平和友好条約成立(1978)に当たって当寺の果たした功績も高く評価されている。
執筆者:

国宝,重要文化財に指定されたものが多い。金堂は桁行7間,梁間4間,寄棟造本瓦葺き屋根で,屋頂両端に鴟尾(しび)をのせている。奈良時代金堂建築の唯一の遺例で,鑑真の弟子如宝によって建立された。当初の屋根勾配はゆるく,正面1間通りを吹放ちとしてその両側の回廊と連なり,南方の中門との間を囲う前庭を形成していた。金堂は外部を丹土で彩色し,軒下支軒板と正面中央柱4本の上半部に文様を施す。内部には柱頭部から天井にかけて極彩色の文様と仏画が描かれ,彩色と種類の豊富さに顕著な唐風が認められる点で特徴的である。講堂は平城宮朝集殿の寄進をうけて,切妻造を入母屋造に,正・背面の吹放しを扉,壁付きの仏堂として改めたもので,現存では唯一の奈良時代宮殿建築遺構として貴重。経蔵,宝蔵はともに奈良時代の遺構で寄棟造屋根の校倉(あぜくら)造,ことに経蔵は新田部親王旧宅の倉を改造したもの。鼓楼(舎利殿,1240)は,鑑真請来の舎利や経論を安置した経楼が鎌倉時代に舎利殿として再建され,さらに江戸時代に至って鼓楼と改名された。礼堂(らいどう)(1284)は創建時の東僧房(東室)に当たり,鎌倉時代に桁行19間のうち南側8間を舎利殿に対する礼拝所すなわち礼堂として改めた。東室と礼堂を分かつ南から9間目には,馬道(めどう)と呼ぶ通路が通されている。

 彫刻では金堂安置の本尊盧舎那仏座像(脱活乾漆造),千手観音菩薩立像(木心乾漆),本尊脇侍梵天,帝釈天立像(乾漆併用木造),四天王立像(木造)は,いずれも創立時から宝亀ごろにかけて造立され,薬師如来立像(木心乾漆,9世紀初めころ)のみがやや遅れる。いずれも中唐の彫刻様式を示し,鑑真に随行した唐工の影響が認められ,以後の木造彫刻に大きな影響を与えた。御影堂安置の鑑真和上座像は,鑑真入滅直前の作で,禅定印を結び,瞑目,端座する姿は天平時代肖像彫刻の白眉である。現在新宝蔵に収蔵されている旧講堂安置の木彫,仏頭群には,均整のとれた肉体表現で著名な如来形立像(9世紀)など,天平時代末から平安時代にかけての秀作が多い。鎌倉期の彫刻としては講堂本尊弥勒仏座像,清凉寺の釈迦を写した礼堂の釈迦如来立像(1258)など,南都教学復興にともなう造像がある。

 工芸では王羲之風の写経体で孝謙天皇の染筆と伝える勅額,鑑真請来の舎利を納める白瑠璃舎利壺とこれを安置する金亀舎利塔(平安末期)のほか,鎌倉時代のものに,念仏会や舎利会に使われた日供舎利塔,法会所用具,鼉太鼓縁(だたいこえん),鉦鼓縁,密教法具,香水壺などがある。絵画には鎌倉極楽寺の忍性が施入した《東征絵伝》5巻(蓮行筆,1298)などが伝えられる。さらに石造物として,寺地北東隅にある鑑真和上御廟の開山塔(宝筐印塔(ほうきよういんとう),鎌倉後期),西方院境内にある覚盛の墓塔(五輪塔,鎌倉時代),また特筆すべきものとして伽藍西方の戒壇(1284)がある。なお戒壇上には,近年ストゥーパが建設された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「唐招提寺」の意味・わかりやすい解説

唐招提寺
とうしょうだいじ

奈良市五条町にある律宗総本山。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。756年(天平勝宝8)、聖武(しょうむ)・孝謙(こうけん)両上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大師鑑真和上(がんじんわじょう)が新田部(にいたべ)親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、戒壇(かいだん)を設け律宗の根本道場とした。初めは唐律招提寺(とうりつしょうだいじ)、唐寺(とうじ)、律寺などと称され、延喜(えんぎ)式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。759年(天平宝字3)「唐招提寺」の勅額が下賜されたが、その勅文には、「招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺」とあり、四方僧坊の義をとり、諸寺の根本とした。以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、帰依(きえ)も厚かった。『大般若経(だいはんにゃきょう)』『金光明(こんこうみょう)経』を読ませ、鎮護国家金光明建初律唐招提寺と号したこともあった。王朝とともに隆盛を極めていた唐招提寺はやがて勢力を失い、平安末期には興福寺(法相(ほっそう)宗)の末寺となった。その後、嘉禎(かてい)年間(1235~1238)覚盛上人(かくじょうしょうにん)が中興第1世となって戒律を復興し寺域を整えたが、ふたたび戦国の兵乱、地震による倒壊などで衰えた。江戸時代に徳川5代将軍綱吉(つなよし)、その生母桂昌院(けいしょういん)らの帰依により大規模な修理がなされた。1900年(明治33)独立して律宗総本山となる。

[里道徳雄]

文化財

金堂、講堂、経蔵・宝蔵は奈良時代、鼓楼(ころう)は鎌倉時代の建物で、おのおのたびたび修補を経ているが、創建当初の姿をよく伝え、国宝に指定されている。金堂は鑑真の弟子如宝(にょほう)(?―815)の建立と伝える。正面7間、側面4間の単層寄棟(よせむね)造で、前面の1間は吹流しの形式をとり、太いエンタシスの柱が屋根を支える。大棟(おおむね)東西端の鴟尾(しび)のうち西側のものは創建当初のもの。堂内には本尊盧舎那仏像をはじめ、薬師如来(にょらい)、千手観音(せんじゅかんのん)、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)、四天王の立像(いずれも奈良時代、国宝)を安置している。講堂は平城京の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築したものといい、天平(てんぴょう)の宮殿建築の唯一の遺構。もと開山堂にあった鑑真和上坐像(ざぞう)(奈良時代、国宝)は、1964年(昭和39)移建された旧一乗院宸殿(しんでん)(国重要文化財)の御影堂(みえいどう)に安置されている。像は脱乾漆造で、法隆寺夢殿の行信僧都(ぎょうしんそうず)の像とともに日本の肖像彫刻中の最高傑作、最古の遺品として名高い。そのほか、木造大悲菩薩(だいひぼさつ)像(覚盛上人像)、紙本着色東征(とうせい)絵巻5巻、絹本着色大威徳明王(だいいとくみょうおう)像、絹本着色十六羅漢(らかん)像(以上、重文)、鑑真が唐より将来した舎利を納める舎利容器1具(国宝)、持国天、増長天、薬師如来など6体の木造立像(りゅうぞう)がまとめて1件の国宝とされるなど、多くの文化財を蔵している。また境内の西に石造3段の戒壇がある。もと覆堂があったが、嘉永(かえい)年間(1848~1854)に焼失、現在は戒壇上に1980年(昭和55)建造の宝塔が建つ。唐招提寺は1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は東大寺など8社寺等が一括登録されている)。

 なお、5月19日に鼓楼で行われる「うちわまき」はよく知られている。

[里道徳雄]

『安藤更生著「唐招提寺」(『美術文化シリーズ 74』1963・中央公論美術出版)』『徳田明本著『唐招提寺』(1973・学生社)』『『古寺巡礼 奈良 9 唐招提寺』(1979・淡交社)』『浅井和春著「唐招提寺」(『名宝日本の美術 7』1980・小学館)』

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百科事典マイペディア 「唐招提寺」の意味・わかりやすい解説

唐招提寺【とうしょうだいじ】

奈良市五条町にある律宗総本山。招提寺とも。南都七大寺の一つ。聖武天皇の勅命で759年唐僧鑑真が創建,以後東大寺戒壇院に対し律研究の道場として重視された。金堂は創建当初の遺構,講堂は創建の際に平城宮の東朝集殿を移建改築したもので,いずれも天平期の様式を代表する。金堂の本尊盧遮那仏(るしゃなぶつ)座像,脇侍の薬師如来立像,千手観音立像ほか天平末期の仏像があり,鑑真和上像,《東征伝絵巻》ほか美術品が多い。
→関連項目校倉鑑真和尚東征伝講堂古都奈良の文化財金堂鴟尾舎利塔摺仏千手観音天平時代西ノ京

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「唐招提寺」の解説

唐招提寺
とうしょうだいじ

奈良市五条町にある律宗総本山。南都十五大寺の一つ。鑑真(がんじん)が朝廷より賜った平城右京5条2坊の新田部(にいたべ)親王旧宅地に759年(天平宝字3)寺院を建立し,唐律招提寺と名づけた。しだいに伽藍が整えられ,776年(宝亀7)と812年(弘仁3)には封50戸が施入された。その後荒廃したが,鎌倉時代に貞慶(じょうけい)らによって復興が図られ,1244年(寛元2)には覚盛(かくじょう)が入寺して中興し,近世にも徳川綱吉の母桂昌院(けいしょういん)らの庇護をうけた。境内は国史跡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「唐招提寺」の意味・わかりやすい解説

唐招提寺
とうしょうだいじ

奈良市五条町にある律宗の総本山。天平宝字3 (759) 年唐僧鑑真の開基。日本最初の戒律専門の寺院として造営された。平安時代に寺勢が衰えたが,鎌倉時代に貞慶,覚真,覚盛らの名僧が輩出して再興。国宝の金堂は本尊『盧舎那仏坐像』をはじめとする諸尊を蔵する奈良時代を代表する建築。その他講堂,宝蔵,経蔵,舎利殿 (鼓楼) などの国宝建造物があり,『鑑真和上像』,金亀舎利塔など奈良,鎌倉時代を代表する名品を所蔵する。

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旺文社日本史事典 三訂版 「唐招提寺」の解説

唐招提寺
とうしょうだいじ

奈良市五条町にある律宗の総本山
759年鑑真建立説と,鑑真没後弟子たちの建立説とがある。平安初期まで隆盛であった。金堂・講堂は天平時代の建築の代表的遺構で,同時代の仏像も多く残っている。『鑑真和上像』は数少ない奈良時代の肖像彫刻の一つとして有名。

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デジタル大辞泉プラス 「唐招提寺」の解説

唐招提寺

奈良県奈良市にある寺院。律宗総本山。759年、鑑真が開創。古くは唐寺(とうじ)、律寺(りつじ)などと呼ばれた。本尊は蘆舎那仏。国宝の金堂など数多くの文化財を保有。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録。

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事典 日本の地域遺産 「唐招提寺」の解説

唐招提寺

(奈良県奈良市五条町13-46)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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世界大百科事典(旧版)内の唐招提寺の言及

【寺院建築】より

…東大寺内も別院が多く,羂索院法華堂(三月堂)は双堂(ならびどう)形で建てられ,鎌倉中期に礼堂を再建して1棟とした西大寺は2棟の華麗な金堂をもち,多数の院ごとに仏堂と僧房を有した。唐から律を伝えた鑑真の唐招提寺は私寺ながら4町の寺地を有し,当時の金堂,講堂を存している。また聖徳太子をまつる法隆寺東院が発願され,中心に八角円堂の夢殿を置いて塔廟を表現した。…

【奈良時代美術】より

…この時期に則天武后から玄宗の最初期ころに至る唐の新様式がもたらされたと思われる。(2)盛期 第8次で渡唐した玄昉,吉備真備らの留学生が帰朝する735年(天平7)より,鑑真が唐招提寺を創立する前年の758年(天平宝字2)まで。玄昉によって初めて,玄奘の新訳による経典を含む一切経が請来された。…

※「唐招提寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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