浜田彦蔵(読み)ハマダヒコゾウ

デジタル大辞泉 「浜田彦蔵」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐ひこぞう〔‐ひこザウ〕【浜田彦蔵】

[1837~1897]幕末・明治の通訳・貿易商播磨はりまの人。江戸への航海中に漂流し、米国船に救われて渡米、帰化し、ジョセフ=ヒコと称した。安政6年(1859)帰国、日米外交交渉に活躍し、また、日本最初の新聞海外新聞」を横浜で発行。アメリカ彦蔵

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精選版 日本国語大辞典 「浜田彦蔵」の意味・読み・例文・類語

はまだ‐ひこぞう【浜田彦蔵】

  1. 江戸末期から明治の貿易商。播磨国兵庫県)の人。アメリカに帰化して、ジョセフ=ヒコと名のる。通称、アメリカ彦蔵、播州彦蔵嘉永三年(一八五〇遭難して漂流、アメリカ船に救助され渡米。帰国後、通訳、貿易に活躍。また日本で初めての民間新聞「海外新聞」を発刊。天保八~明治三〇年(一八三七‐九七

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改訂新版 世界大百科事典 「浜田彦蔵」の意味・わかりやすい解説

浜田彦蔵 (はまだひこぞう)
生没年:1837-97(天保8-明治30)

幕末の漂流者播磨(兵庫県)に生まれ,アメリカに帰化してジョセフ・ヒコJoseph Hecoと称し,アメリカ彦蔵ともいわれる。1850年(嘉永3)冬,江戸からの帰途海難にあい,漂流50余日でアメリカ船に救助され渡米,いったんマカオに送られたがペリー艦隊にあえず再び渡米し,アメリカで教育を受け,58年(安政5)アメリカ市民となった。その間ピアースおよびブキャナンの両大統領と会見し,59年アメリカ領事の通訳として来日し,日米通商条約の実施,遣米使節の派遣など外交交渉に活躍した。63年(文久3)長州藩の外国船砲撃(馬関戦争)の際は,職責上ワイオミング号に乗り下関砲撃に参加した。その後職を辞し横浜で商社を開き貿易に従事,英字新聞から訳出して《海外新聞》を発刊した。69年(明治2)大阪造幣局の設立に助力し,伊藤博文木戸孝允とも交わり,72年大蔵省にはいり渋沢栄一のもとで国立銀行条例の編纂に従事した。著書に《The Narrative of a Japanese》(邦訳《アメリカ彦蔵自伝》)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜田彦蔵」の意味・わかりやすい解説

浜田彦蔵
はまだひこぞう
(1837―1897)

幕末の漂民、明治にかけての貿易商。播磨国(はりまのくに)(兵庫県)に生まれた船乗りの子。1850年(嘉永3)14歳のとき遠州灘(えんしゅうなだ)で暴風雨にあい漂流50余日、アメリカ船オークランド号に救助されて渡米。教育また洗礼も受け、帰化して名をジョセフ・ヒコと改めた。1859年(安政6)9年ぶりに日本に帰り、華やかな幕末外交界に登場、アメリカ領事館の通訳として活躍、開国後の日本の外交に尽くした。俗にアメリカ彦蔵、播州彦蔵(ばんしゅうひこぞう)ともよばれる。1861年(文久1)ふたたび渡米、翌1862年帰国後は商館を開設、神戸・長崎などで貿易を営んだ。

 彼は職を転々としているが、有名なのは1864年(元治1)横浜で岸田吟香(きしだぎんこう)らと日本での民間最初の新聞『海外新聞』を発刊したことである。また大蔵省で国立銀行条例の編集にあたったこともあった。自己の漂流について『漂流記』(1863)を著し、そのほか英文の自伝を刊行した。

[小野信二]

『浜田彦蔵著、中川務他訳『アメリカ彦蔵自伝』2冊(平凡社・東洋文庫)』


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百科事典マイペディア 「浜田彦蔵」の意味・わかりやすい解説

浜田彦蔵【はまだひこぞう】

幕末・明治の貿易商。通称ジョセフ・ヒコ,アメリカ彦蔵とも。播磨(はりま)の人。1850年漂流中米国船に救助され渡米,1858年米国市民となる。1859年帰国し米国領事館の通訳として日米交渉に活躍。1864年英字新聞から訳出した新聞《海外新聞》(はじめ〈新聞誌〉と標題)を発行。伊藤博文木戸孝允らとも交わり,1872年大蔵省に入り渋沢栄一の下で国立銀行条例を編纂(へんさん)。著書《アメリカ彦蔵自叙伝》。
→関連項目海外新聞岸田吟香

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浜田彦蔵」の意味・わかりやすい解説

浜田彦蔵
はまだひこぞう

[生]天保8(1837).8.21. 播磨
[没]1897.12.12. 東京
幕末に活躍した通訳,貿易商。アメリカ彦蔵,ヒコダ唐人ともいわれた。嘉永3 (1850) 年 10月 20日『栄力丸』で江戸を出航したが,遠州灘で遭難。 52日間漂流したあげくアメリカ船『オークランド』号に救助されて,翌年2月サンフランシスコに着いた。その後は海員生活や学校生活をし,1858年アメリカに帰化してジョセフ・ヒコと名のり,日系アメリカ人第1号となった。安政6 (1859) 年 T.ハリス公使に伴われ,通訳として神奈川に帰着。文久1 (1861) 年また帰米したが,翌年帰国後は貿易業を営んだ。元治1 (1864) 年6月日本最初の民間新聞『海外新聞』を創刊した (初めは手書きで『新聞誌』といい,翌年5月に改題して木版印刷になった) 。その後は事業に失敗し,通訳や大蔵省勤務などで世を過ごした。

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朝日日本歴史人物事典 「浜田彦蔵」の解説

浜田彦蔵

没年:明治30.12.12(1897)
生年:天保8.8.21(1837.9.20)
幕末の漂流民,新聞創始者。通称アメリカ彦蔵,アメリカ名はジョセフ・ヒコ。嘉永3(1850)年,灘の樽廻船栄力丸に乗り組み江戸より帰航中に漂流,米船オークランド号に救助され,サンフランシスコに着く。1852年,ほかの乗組員と共に香港に送られるが,帰国のめどがたたぬまま同輩2人と共にアメリカへ帰り,後援者を得て教育を授けられ,アメリカ市民権を得る。開国後の安政6(1859)年に帰国,領事館通訳などを経て元治1(1865)年,最初の民間邦字新聞『海外新聞』を創刊,明治に入ってから各種の事業も経営した。最近ではその建白類が注目されている。<著作>『漂流記』,英文自伝《The Narrative of A Japanese》(邦訳『アメリカ彦蔵自伝』全2巻)<参考文献>「ジョセフ彦関係文書」(近代思想大系 田中彰編『開国』所収),近盛晴嘉『ジョセフ・ヒコ』

(春名徹)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「浜田彦蔵」の解説

浜田彦蔵
はまだひこぞう

1837.8.21~97.12.12

幕末期の漂流者・新聞人。播磨国生れ。幼名は彦太郎。1850年(嘉永3)冬に難破し,アメリカ船に救われ滞米10年。日本人として最初にカトリックの洗礼をうけてジョセフ・ヒコとなり,また市民権をえてアメリカ国籍を取得。59年(安政6)横浜開港時にアメリカ領事館通訳として帰国。64年(元治元)日本語新聞「新聞誌」を刊行。著書に「漂流記」,英文の「自伝」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「浜田彦蔵」の解説

浜田彦蔵
はまだひこぞう

1837〜97
幕末・明治時代の通訳・貿易商
通称アメリカ彦蔵。播磨(兵庫県)の人。1850年海難にあいアメリカ船に救われ渡米,帰化しジョセフ=ヒコと改名した。'59年アメリカ領事館通訳として帰国,'65年『海外新聞』を発行。また貿易にも従事した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浜田彦蔵」の解説

浜田彦蔵 はまだ-ひこぞう

ジョセフ=ヒコ

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367日誕生日大事典 「浜田彦蔵」の解説

浜田彦蔵 (はまだひこぞう)

生年月日:1837年8月21日
江戸時代末期;明治時代の通詞;貿易商
1897年没

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