日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブキャナン」の意味・わかりやすい解説
ブキャナン(James Mcgill Buchanan Jr.)
ぶきゃなん
James Mcgill Buchanan Jr.
(1919―2013)
アメリカの経済学者。テネシー州マーフリーズボロに生まれる。1940年にミドル・テネシー州立大学を卒業、1941年テネシー大学で修士号、1948年シカゴ大学で博士号を取得した。1951年フロリダ州立大学教授、1956年バージニア大学の経済学教授およびトーマス・ジェファソン政治経済学センターの所長となり、カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授を経て、1969年にバージニア工科大学の公共選択研究センター所長に就任、1983年ジョージ・メイソン大学の教授に転じるとともに、センターの本部も同大学に移転した。
ブキャナンはシカゴ大学でF・H・ナイトの指導を受けた。彼は財政学を研究し、経済学的分析手法を非市場領域の政治学に適用して、政治経済学の分野で新しい領域を開拓した。公共選択の理論の創始者であり、バージニア学派のリーダーとして活躍した。
もっとも著名な業績は、公共選択の理論をつくりだし、それを発展させたことである。公共選択の理論は、市場の理論と政治における政策決定のプロセスとの関係を分析したもので、個人の意思から公共意思決定に至る過程での立憲制度の役割を考察する。
1986年に「民主主義制度のもとでの政治的・経済的な意思決定を取り扱う公共選択の理論を確立」した功績により、ノーベル経済学賞を受賞した。財政理論に関するものをはじめ、多数の著作がある。
[金子邦彦]
『ジェームズ・M・ブキャナン著、山之内光躬・日向寺純雄訳『財政理論』(1971・勁草書房)』▽『ジェームズ・M・ブキャナン著、山之内光躬・日向寺純雄訳『公共財の理論――公共財の需要と供給』(1974・文真堂)』▽『J・M・ブキャナン、R・E・ワグナー著、深沢実・菊地威訳『赤字財政の政治経済学』(1979・文真堂)』▽『J・M・ブキャナン、G・タロック著、宇田川璋仁監訳『公共選択の理論』(1979・東洋経済新報社)』
ブキャナン(George Buchanan、人文学者、カルバン主義者)
ぶきゃなん
George Buchanan
(1506―1582)
スコットランドの人文学者、カルバン主義(長老主義)者。セント・アンドリューズ大学総長も務める。フランスのボルドー亡命中の教え子にモンテーニュがいる。主著『スコットランド人における王権について』(1579)は、その内容があまりにも危険であるとして王政復古期の1683年にオックスフォード大学で焚書(ふんしょ)にされている。この本の中で彼は、国王は誤りやすいので法によってコントロールされなければならないこと、国王の教師は神によって自然法を植え付けられた人民であり、その意志は法の背後にあること、したがって国王は法を正しく行うという約束に義務づけられており、もしもこの契約を破れば、彼に対する臣下の義務は解消されるとして、民衆的反乱と暴君殺しの正当性を主張している。
[田中 浩]
ブキャナン(James Buchanan)
ぶきゃなん
James Buchanan
(1791―1868)
アメリカ合衆国第15代大統領(在任1857~61)。4月23日ペンシルベニア州生まれ。同州議会議員、連邦下院議員を経て、駐ロシア公使、上院議員を歴任。第11代大統領ポーク治下の国務長官を務め、1846年のオレゴン条約を締結した。駐英公使を経て、56年の大統領選に際し民主党から立候補、共和党のJ・C・フレモントを破って、57年大統領に就任した。カンザス・ネブラスカ法の成立後いっそう緊張の高まった南北対立のなかにあって、閣僚の人的配置や奴隷制廃止論者の動向に配慮し、南部諸州の連邦離脱の阻止に努めたが成功せず、やがて、事態は60年のA・リンカーン当選からサムター要塞(ようさい)における武力対立へと連なっていった。なお日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節船を護衛した咸臨(かんりん)丸がサンフランシスコに到着したのは、この大統領の時代である。68年6月1日死去。
[中谷義和]
ブキャナン(George William Buchanan、外交官)
ぶきゃなん
George William Buchanan
(1854―1924)
イギリスの外交官。外交官であった父の任地コペンハーゲンで生まれる。1876年外交官となり、東京、ダルムシュタット、ソフィアなどでの勤務を経て、1910年駐ロシア大使となった。イギリス・ロシア協商が結ばれていても矛盾の多かった両国関係の改善に努力し、第一次世界大戦が始まると、ロシアの戦争努力を強めさせることに力を注いだ。ロシア革命時には、社会主義への嫌悪感を明らかにしつつも、ロシアの戦線離脱を食い止めようとした。1918年1月ロシアを離れ、ついで駐イタリア大使を務めた。
[木畑洋一]