浦戸村(読み)うらどむら

日本歴史地名大系 「浦戸村」の解説

浦戸村
うらどむら

[現在地名]高知市浦戸

土佐湾の入江浦戸湾の湾口に西から半島状に突出した地の大部分を占める。村の東、半島先端部は勝浦浜かつらはま村。南は土佐湾で西は長浜ながはま村に連なる。北側は浦戸湾に開かれた港で、村内を東西に連なる標高五〇メートルほどの丘陵によって強風が防がれ天然の良港となっている。吾川あがわ郡に属した。

「土佐日記」承平四年(九三四)一二月二七日条に「うらど」がみえる。中世には、廻船式目に浦戸の篠原孫左衛門の名があり、商港として要地であったことがうかがわれる。政治的にも重要な地点で、南北朝期初頭、南朝方水軍の拠点となっていたが、建武三年(一三三六)正月、北朝方の軍勢に攻撃されている(同月八日付「佐伯経貞軍忠状」蠧簡集拾遺)

戦国時代には、長岡郡本山もとやま(現本山町)から土佐平野へ進出した本山氏が、この地に浦戸城を築いた。永禄三年(一五六〇)長宗我部氏は本山氏を破って浦戸を手中に収め、御畳瀬みませや対岸種崎たねざきとともに水軍の拠点とした。同一一年の一宮再興人夫割帳(土佐神社文書)に「浦戸衆」がみえ、備後守殿一〇人、宮崎善兵衛三人など四八人が出夫している。天正一六年(一五八八)長浜地検帳に浦戸村とみえる。


浦戸村
うらとむら

[現在地名]美浜町浦戸

北の河和こうわ村と南の古布こう村との間にあり、西は丘陵となり、山の迫間に水田が点在し、東は平地で水田が広がり浜辺に続いている。天保六年(一八三五)古布村から分村した。天保の村絵図によると、民家は集落を作らず点在している。「徇行記」に「支邑浦土うらとニ家廿戸程アリ」といい、「尾張志」に「枝村浦土は天保のはじめ一村となりて浦戸村といふ」とある。「知多郡史」によれば、概高一九二石余、新田概高一石二斗余であった。

字岡ノ脇にある壬生みぶ神社は尾張国神名帳に従三位壬生天神とある。


浦戸村
うらどむら

[現在地名]大三島町浦戸

現大三島町南部の西端に位置する。東は口惣くちすぼ村に連なり、南は山を隔てて宗方むながた村に接し、北と西は海に面する。村の東北、入江に臨む字古新田には先船津さきふなづ前船津まえふなづの小字名が残っている。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「浦戸村 日損所、林少有」とみえ、村高は四七石五斗三升の小村である。享保末年の「越智島旧記」によると、田畑面積は、田一町八反六畝八歩、畑一五町一反八歩、ほかに新田畑として、田一町九反二畝一二歩、畑一町一反五畝二〇歩がある。家数は三六軒、うち御水主定家数五軒、御百姓家二八軒、無給家三軒、人数は一九五人である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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