深水村
ふこうずむら
[現在地名]三光村上深水・下深水
犬丸川上流の谷間に散在し、東は山を越えて宇佐郡、西は八面山、南は麻生村(現宇佐市)、北は秣村。「宇佐大鏡」に宇佐宮権大宮司宗海が寄進して、長徳六年(一〇〇〇)に立券したという深水庄がみえる。正和二年(一三一三)九月六日の鎮西下知状案(小山田文書)によれば、深水高継は野仲郷得光名内の田地について、神領興行と称し数年間訴訟を続けている。この高継は同四年正月二二日の法橋清範奉書写(湯屋文書)の宛名人深水権擬少宮司と同一人である。この頃御家人の深水武藤三郎能氏がおり、来縄郷(現豊後高田市)内小野名への使節を勤めている(正和二年一一月一六日「鎮西御教書」永弘文書)。少弐氏の一族であろうか。
深水村
ふかみむら
[現在地名]相良村深水
川辺川下流両側の低地の部分を除けば、大部分は標高一四〇―二〇〇メートルの山地状地形に属する。北は河辺村、南は梁瀬村および大村(現人吉市)、東は木上村(現錦町)、西は山田村(現山江村)に接する。
建久二年(一一九一)五月三日の良峯師高所領譲状案(平河文書)に「一所 同郡同庄之内深水六町三十九石」とあり、永吉庄に属し、川辺川に沿う村のうち、一ヵ村だけ米のみの貢納である。慶長国絵図に村名がみえず、寛永一一年(一六三四)の郷村高辻帳に本田高二二八石二斗余・新田畑高一四五石一斗余とある。同一八年の検地帳では三〇八石六斗余の分米高となり、上田五町余・中田四町余・下田五町四反二畝余、上畑八町三反一畝余・中畑五町一反四畝余・下畑二町七反七畝余・野畑一町九畝余・山畑なし、屋敷一町九反八畝余、合計三三町七反四畝余で、川辺川沿岸村のなかでは、下畑・野畑・山畑などの割合が低く、上畑や田の割合が高い。
深水村
ふかみずむら
[現在地名]姶良町深水
女生岳の西側山麓に位置し、南東は三拾町村、北西に山田川と田地がある。田地は牟田(湿田)が多かった。深見とも記されることから、かつては「ふかみ」と称されたとも考えられる。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西郷の公田一四三町五段のうちに「深見七丁九段」がみえ、正八幡宮(現鹿児島神宮)への貢進田五段を差引いた七町四段に石築地役が課されており、七尺四寸を負担していた。領主は正八幡宮の留守刑部左衛門尉真用。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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