深江浦・深江村(読み)ふかえうら・ふかえむら

日本歴史地名大系 「深江浦・深江村」の解説

深江浦・深江村
ふかえうら・ふかえむら

中世、高来東たかくとう郷内にあった浦・村。宝治元年(一二四七)六月五日の平朝澄譲状案(深江文書、以下断りのない限り同文書)に「高来東郷内深江浦」とみえ、有馬朝澄が先祖相伝の所領である当浦地頭職を深江入道蓮忍に譲っており、その四至は、南限は下が立江小河、上が「古ゑ荒平之飯野野与山合」、西は嶽、北限は上が多賀倖嶽、下が「鞍懸尾の通り倖与尾夜波寸の嶽大佐古通り集楽尾浜仏石」、東は海を限ると記されている。建長六年(一二五四)ふかへのうら」の地頭職は蓮仏(蓮忍の子か)から嫡子の平持澄に譲られている(同年四月四日沙弥蓮仏譲状案)。文永二年(一二六五)「深江村」小地頭の安富頼清(心空)が村内で狼藉をはたらいたとして惣地頭の越中長員を訴えているが(同年七月二九日大宰府守護所使等傷実検状)東国御家人の越中氏は寛元二年(一二四四)以前に高来東郷に惣地頭として入部、同じく安富氏は建長六年から文永二年の間に小地頭として入部したとされ、この両者で相論が繰返されていた。

文永一〇年安富行位(頼清)と越中長員との間で深江村の所務、つまり有馬朝澄の開発田所当をはじめ牧地・本在家麦地子・粟地子・桑代・預所政所・検断権や四四疋の馬、一〇〇頭の牛などについて相論となっているが、村の開発に有馬氏が関与していたこと、牛馬牧などが注目される(同年六月一五日か六波羅御教書)。建治二年(一二七六)深江村地頭(安富氏)が肥前守護少弐経資からモンゴル襲来に備えて要害石築地の築造のために筑前博多に赴くよう指示されている(同年三月一〇日少弐経資石築地役催促状)。弘安一〇年(一二八七)には高来東郷地頭兼預所の越中長員代の道智が深江村越訴および年貢配分について地頭安富氏を訴え、深江村地頭代の定心に参対を催促しているが(同年八月二六日少弐経資召文)、地頭代は鎌倉にいた安富氏の帰国を待って裁決を望み、少弐経資は三ヵ月中に参決することを命じている(同年一〇月三〇日少弐経資召文)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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