日本歴史地名大系 「深江浦・深江村」の解説
深江浦・深江村
ふかえうら・ふかえむら
中世、
文永一〇年安富行位(頼清)と越中長員との間で深江村の所務、つまり有馬朝澄の開発田所当をはじめ牧地・本在家麦地子・粟地子・桑代・預所政所・検断権や四四疋の馬、一〇〇頭の牛などについて相論となっているが、村の開発に有馬氏が関与していたこと、牛馬牧などが注目される(同年六月一五日か六波羅御教書)。建治二年(一二七六)深江村地頭(安富氏)が肥前守護少弐経資からモンゴル襲来に備えて要害石築地の築造のために筑前博多に赴くよう指示されている(同年三月一〇日少弐経資石築地役催促状)。弘安一〇年(一二八七)には高来東郷地頭兼預所の越中長員代の道智が深江村越訴および年貢配分について地頭安富氏を訴え、深江村地頭代の定心に参対を催促しているが(同年八月二六日少弐経資召文)、地頭代は鎌倉にいた安富氏の帰国を待って裁決を望み、少弐経資は三ヵ月中に参決することを命じている(同年一〇月三〇日少弐経資召文)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報