大江村(読み)おおえむら

日本歴史地名大系 「大江村」の解説

大江村
おおえむら

[現在地名]大津市大江一―七丁目・瀬田大江町せたおおえちよう神領じんりよう二丁目・玉野浦たまのうら大萱おおがや一―四丁目・一里山いちりやま一―二丁目・瀬田せた一丁目

神領村の北東にあり、南東部に広がる丘陵に灌漑用の溜池が点在する。村の中央を通る東海道沿いの両側に二町一五間、片側では四町に及ぶ町並が続いた(宿村大概帳)。地名は文章道で朝廷に仕えた大江氏が開発したことに由来するという。若松わかまつ神社や「ちりんさん」(大江千里の旧宅跡と伝える)など大江氏にまつわる伝承が残る(唐橋遠近)。旧石器時代の有舌ポイントが見つかった大山おおやま遺跡、横穴式石室の若松神社境内古墳などがあり、奈良時代に近江国府が置かれ、その関連遺跡も数多い。中世は大江保・大江庄としてみえる。地内窪江くぼえ(久保江)には永正期(一五〇四―二一)高野甲斐守が城主であったという窪江城があった。


大江村
おおえむら

[現在地名]天草町大江

しも島の南西部に位置し、北は高浜たかはま村、東は今富いまとみ(現河浦町)、西は天草灘に面し、沖合には現在天草海中公園に指定される奇岩のおおがある。村の南は羊角ようかく湾の入口にあたり、枝郷いくさうら村があり、中世天草氏の重要な拠点の一つであった。羊角湾を隔てた対岸の向辺田むこうべたも当村に入る。石斧を出土した大江遺跡、弥生後期の土器出土の下木原しもきはら遺跡、古墳時代後期の城の尾じようのお古墳群(円墳四基)がある。

貞永二年(一二三三)二月一六日付の天草種有譲状案(志岐文書)に「おほミ」とみえ、天草氏領内の本砥ほんど島のうちであった。慶長国絵図に「大池」とみえ、正保郷帳にも「大池村」高一千三八石五斗余とある。


大江村
おおごむら

[現在地名]小松町大郷おおご

妙之谷みようのたに川に沿う山間の村。東は妙口みようぐち村・千足山せんぞくやま村に、南は千足山村に、西は楠窪くすくぼ(現丹原町)大頭おおと村に、北は妙口村に接する。石鎚いしづち山に連なる山村で、村内を妙之谷川が南から北に貫流する。千足山村の横峰よこみね寺への道はこの川沿いをさかのぼる。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項には「高六拾弐石田方弐拾三石弐斗九升八合 畠方三拾八石七斗弐合 大江村 柴山有、小川有、日損所」とあり、元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記には同石高で「一柳兵部少輔知行 大郷村」とある。天保郷帳も同石高で、「古者大郷村 大江村」とあり、二通りの表記が行われていた。


大江村
おおえむら

[現在地名]余市よいち郡仁木町大江・銀山ぎんざん尾根内おねない長沢西ながさわにし長沢南ながさわみなみ長沢殖民地ながさわしよくみんち赤井川あかいがわ村赤井川など

明治一六年(一八八三)から同三五年まで存続した村。仁木村の南にあり、余市川が流れる。山川地理取調図や板本「西蝦夷日誌」では余市川筋の「マクハツタリ」、タイメム、ホロメナ、チライマクンヘツ、「チユクニ」、「シユマウシヘツ」などが記される。明治一三年旧長州萩藩侯毛利元徳が旧藩有志を募って入植することを計画、同一四年粟屋貞一が派遣されて一一月までに四戸が移住、同一五年には一八戸・五五人が入った(状況報文)。同年一二月仁木、黒川くろかわ(現余市町)、大江など五ヵ村が民費による道路開削を請願、開拓は粟屋氏により推進された。


大江村
おおえむら

明治三五年(一九〇二)から昭和三九年(一九六四)まで存続した村。明治三五年四月、大江村・山道さんどう村・仁木にき村が合併して新たに大江村となり、二級町村制施行。同年北海道鉄道が上山道かみさんどうまで開通、仁木・然別しかりべつ・上山道の三駅が設置された。当時、村内は文覚もんがく、中ノ沢、トクシナイ、フレトイ、平内、浅堀という通称字が用いられていた。同三六年上山道から赤井川あかいがわ村に開拓道路が通じている。同年大江神社が創立許可を得て、毛利家の縁故から山口県野田のだ神社(現同県山口市)より分霊を勧請した。同三七年上山道駅が廃止、同三八年銀山ぎんざん駅が設置。


大江村
おおえむら

[現在地名]井原市大江町

上稲木かみいなぎ村の北西にあり、北は下出部しもいずえ村、西は備後国八尋やひろ(現広島県深安郡神辺町)など。相原あいばら公園の北にある石塔せきとう山に古墳群がみられ、古代小田おだ出部いずべ(和名抄)の郷域とされる。

元和五年(一六一九)備後福山藩領となり、以降の領主の変遷は下稲木村と同じであったと考えられる。寛永備中国絵図では高一千五六一石余。正保郷帳では枝村に高見村・ごし村・西田村・宮脇村・梶草かじくさ村が載り、梶草は字名として残る。


大江村
おおえむら

[現在地名]瀬高町大江

有富ありどみ村の南西にある。「和名抄」所載の山門郡大江郷の遺称地とされる。天正七年(一五七九)龍造寺隆信田尻鑑種に対し津留つる浜田はまだ二村のほか一千町の所領給付を確約し(同年一二月九日「龍造寺隆信起請文」田尻家文書/佐賀県史料集成七)、そのうち六〇三町を先給した天正七、八年頃のものとみられる年未詳の田尻鑑種知行坪付(同上)には「八町 大江村」とある。文禄四年(一五九五)の知行方目録には記載されず、元和七年(一六二一)の郡村帳に大江村とあり、玄蕃高三五二石余・新田高五石余、小物成は山手米一石余。


大江村
おおえむら

[現在地名]熊本市大江一―四丁目・新大江しんおおえ三丁目・新屋敷しんやしき一―三丁目

白川左岸に位置し、東は渡鹿とろく村・保田窪ほたくぼ村、南はもと村と田迎手永の国府こくぶ村である。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「六町 大江」とある。現高を記した慶長八年(一六〇三)の検地帳では田はなく、畑山畑六五町八反九畝余・分米三五三石余、屋敷九反九畝余・分米七石九斗余、家数四七、男四四(うち年寄一〇・倅二)、女三六(うち年寄三)、牛一一・馬一四とある。


大江村
おおえむら

[現在地名]溝口町大江

北流する日野川に西流する大江川が合流する地で、同川左岸に位置する。大江川に架かる郡界ぐんかい橋を隔てて北は会見あいみ上細見かみほそみ(現岸本町)、南は溝口宿。日野往来と重なる出雲街道が村内を南北に通り、東の金屋谷かなやだに村から岩立いわたて村を経て大山に至る大山道のうちの溝口道が分岐する。村名は享保年間(一七一六―三六)宮原みやばら村庄屋大江平兵衛が開拓したことにちなみ、以前は「かした」と称したというが、「伯耆志」は支村としてカシタを記す。


大江村
おおごうむら

[現在地名]小杉町大江

小白石こじらいし村の西に位置し、西端を下条げじよう川が流れる。南は戸破へわり村。オオゴともよび、沼地が多く、田の仕事も体が沈むほどの地であったので大江と称したといわれる。当地の西養さいよう(現真宗大谷派)に宛てた慶長一一年(一六〇六)九月の寺号免許状(木倉氏筆写史料)には「射水郡横後村 西養寺」とみえる。正保郷帳によると高一千三三四石余、田方七一町五反余・畑方一七町四反、ほかに新田高二五石余。


大江村
おおえむら

[現在地名]八鹿町大江

坂本さかもと村の東、円山まるやま川支流大江川の流域にある。集落は口大江くちおおえとその上流の奥大江おくおおえに分れている。鎌倉時代、国衙領大恵おおえ保内の一郷であった大恵本郷は当地付近に比定される。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文に記される大恵保のうちに「大恵本郷 五町六反百三十分」とみえ、地頭肥塚七郎入道行西と注記があり、田地の内訳は仏神田三反、地頭分六反、公文給五反、公田四町二反一三三歩である。


大江村
おおえむら

[現在地名]会津坂下町大沖おおおき

佐賀瀬さかせ川扇状地の扇端にあり、南は水島みずしま村、西は出鶴沼いづるま川を隔てて牛沢うしざわ村。北東七町に端村のおきがある。もと大江村・沖村として二区に住し、総称を沖大江村といったが、寛文年中(一六六一―七三)沖を端村とした(新編会津風土記)。「和名抄」会津郡の九郷のうち大江郷の遺称地とする説がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「大江おき」とあり、高五七九石余。寛文五年(一六六五)の「稲河領牛沢組郷村万改帳」には沖大江村とあり、本田高五九九石余・新田高一九石余、免四ツ一分余、家数四八、竈六〇、男一五一・女一二四、馬三五、小物成に綿役・糠藁・足前・山役があり、ほかに役漆木二六本余、役蝋五六一匁がある。


大江村
おおやむら

[現在地名]南島町大江

大江川の中流域に川に沿って南北に細長く形成された集落。北東方の三浦みうら峠を越えて押淵おしぶち村に入り、しよ(ともに現南勢町)に至る街道沿いにある。また南下して大方おおかた竈へ至る道との分岐点でもある。西は道方みちかた村、南は道行みちゆく竈。

明治三年(一八七〇)内宮より神祇官出張所へ出した書上(「神宮要綱」所載)によれば、大江嶋より毎年の神嘗祭由貴御贄供料として塩堅魚二隻を近世末まで貢納しており、神宮領の形態が保たれていたことが知られる。


大江村
おおえむら

[現在地名]倉敷市連島町連島つらじまちようつらじま

東・西両高梁たかはし川に囲まれた河内の南東部に位置する。正保郷帳に幕府領の連島西浦つらじまにしのうら村の枝村に大江村がみえる。「備中集成志」には寛永(一六二四―四四)の頃として同領阿我羅あがら(矢柄村)の枝村に大江村を記す。延宝二年(一六七四)の備中国蔵入村々高帳(中山文書)では高七九石余。同五年備中松山藩によって検地が行われ、検地帳(三宅文書)によれば田六町五反余・畑八町四反余、小物成として蜜柑一三本に銀二二匁六分がかけられている。


大江村
おおえむら

[現在地名]上県町佐護南里さごみなみさと 大江

恵古えこ村の西にある同村枝郷。「津島紀事」に属里とし、於保恵と訓じられ、大居とも書くとある。江湖に通じるともいう。中世は佐護郡のうちで、応永一七年(一四一〇)一一月一五日の宗貞茂書下(佐護郷給人等判物写、以下同判物写)に「佐護郡おうゑ」とみえ、畠一町が貞茂より佐護観音堂に寄進され、佐護の近江講房に宗家繁盛のため精誠を抽ずるよう命じられている。さらに同一九年「大江村」の観音領地内に居住する百姓を、領内百姓として召使うことが佐護近江講房に認められている(同年六月一日宗貞茂書下)


大江村
おおえむら

[現在地名]宇和町大江

宇和川が北の東多田ひがしただ村から平地部に出る地域に位置する村。南は加茂かも村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「大江村 柴山有、日損所」とある。

太閤検地の石高は三四六石二斗、耕地面積の比率は田六六パーセント、畑三四パーセントで、宇和盆地の村のなかでは畑の比率が高い。寛文検地では石高が約一〇パーセント減少し、耕地の比率は田五六パーセント、畑四四パーセントに変わっている。「墅截」による村柄は「上」、耕地は田畑とも「中」、水掛り「中」である。


大江村
おおえむら

[現在地名]大和郡山市大江町

井戸野いどの村西方、菩提仙ぼだいせん川右岸に位置する。環濠集落。文和二年(一三五三)一〇月の東大寺領大和国散在田地并抑留交名事(日本地名学研究所蔵東大寺文書)の「雑役庄抑留交名」に「大宅庄をほえのしやう」とある。大江は大宅の転か。嘉禄二年(一二二六)一二月の勧学院政所下文案(内閣文庫蔵大乗院文書)によると京南三条二里一三坪・二七坪が「大(宅)庄」に相当する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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