瀬崎村(読み)せざきむら

日本歴史地名大系 「瀬崎村」の解説

瀬崎村
せざきむら

[現在地名]舞鶴市字瀬崎

大浦半島の西北端に位置する外海に面した沿岸集落。海に臨んではいるが、良好な舟着場がなく、かつ冬季には海が荒れるため、村の主たる生業は農業である。村の西北端にある博奕ばくち岬は海難事故の多い所として知られる。

慶長検地郷村帳に高一二九・七七石「瀬崎村」とみえ、江戸後期の土目録でもほぼ同高。内訳は田方一一二石余、畑方一七石余である。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚による農家戸数は二七。


瀬崎村
せさきむら

[現在地名]草加市瀬崎町

草加宿の南に位置し、東は綾瀬川の旧河道および伝右でう川を境として埼玉郡西袋にしぶくろ(現八潮市)、南は東流する毛長けなが川を隔てて花又はなまた(現東京都足立区)。日光道中が西端を南北に通る。大永三年(一五二三)銘の阿弥陀一尊板碑が発見されるなど中世より集落があったらしいが、「風土記稿」はいったん荒廃したのち近世初頭から再開発された地であると記す。


瀬崎村
せざきむら

天竜川の中洲にあった村。現在は河川敷となって消滅している。年未詳の遠江国絵図(東北大学附属図書館蔵)には天竜川右岸、西鹿島にしかじま北西に隣接して描かれる。領主変遷二俣ふたまた村と同じ。松平忠頼領郷村帳には上島かみじま(現浜北市)の村高のほかとして「瀬崎かしま舟越免」とみえ、瀬崎鹿島の舟頭給として高三〇石余が与えられていた。しかし延宝四年(一六七六)の流木出入付北鹿島村返答書(田代家文書)によると、瀬崎村は西鹿島の枝郷で、西鹿島村は川口かわぐち村とともに親郷北鹿島村から分村したとする。延宝二年には当村庄屋を西鹿島村庄屋が兼帯している(同文書)。同年の御役家并鉄砲船馬員数書上控(同文書)によれば瀬崎村の役家二軒。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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