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テニス選手,日本最初のオリンピック・メダリスト。福岡県出身。1913年慶応大学庭球部主将のとき,ロンドン留学中の先輩小泉信三のすすめもあって,それまでの軟式庭球を国際的な硬球に切り替えることを決め,軟式全盛の各大学に通告,日本のテニスに新時代を開いた。卒業後,三菱銀行に入社。16年5月初めて渡米し各地で活躍,全米5位にランクされ名声を高める。19年ニューヨーク在勤中,ニューヨーク選手権でアメリカの強豪ティルデンを破り,全米選手権ではティルデンに敗れたが全米3位となる。20年アントワープの第7回オリンピックに出場,シングルスで2位,ダブルスでも柏尾誠一郎と組んで2位となり,日本最初のメダリストとなった。21年清水善造,柏尾誠一郎とともに初めてデビス・カップ戦に出場,チャレンジ・ラウンドに進出してアメリカと対戦したが完敗。左利きの強打で鳴らした。
執筆者:川本 信正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
日本テニス史初期を飾る国際的選手。福岡県出身。慶応義塾大学庭球部主将時代に硬式テニス採用を推進。1915年(大正4)上海(シャンハイ)における第2回極東選手権、翌年マニラでの東洋選手権に優勝。16年アメリカに遠征し、各地のトーナメントで優勝。ニューポートでは全米1位のジョンストンを破り一躍有名になる。その後三菱(みつびし)合資会社の社員としてニューヨークに赴任。19年にはグレートレーク選手権で全米1位マレー、2位チルデンを破って優勝、全米ランキング3位となる。20年オリンピック・アントワープ大会でシングルスに、また柏尾(かしわお)誠一郎と組みダブルスで2位。日本に初めてのオリンピック・メダルをもたらす。21年日本初出場のデビスカップで清水善造(ぜんぞう)とともにチャレンジ・ラウンド進出の偉業をなす。
激しい闘争心でつねに全力でラケットを振るった熊谷は体力の衰えを知ると国際試合から引退。22年帰国後は、日本デ杯選手選考委員会委員長を務めるなど、日本テニス界の発展に尽力した。
[久保圭之助]
『上前淳一郎著『やわらかなボール』(1982・文芸春秋)』
大正・昭和期のテニス選手 日本庭球協会副会長。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…アントワープの会場には初めて五輪の旗が翻り,ベルギー選手によって初めて〈選手宣誓〉が行われた。テニスでは日本の熊谷一弥,柏尾誠一郎がシングルスとダブルスで2位となり,日本人初のメダリストになった。24年2月,シャモニー・モンブラン(フランス)で,パリで開催される第8回大会の一部としてスキーとスケートの競技が行われたが,IOCは翌年の総会でこれを第1回とするオリンピック冬季競技大会を創設した。…
※「熊谷一弥」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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