デビスカップ(読み)でびすかっぷ(英語表記)Davis Cup match

日本大百科全書(ニッポニカ) 「デビスカップ」の意味・わかりやすい解説

デビスカップ
でびすかっぷ
Davis Cup match

内部の直径45センチメートル、高さ30センチメートルほどの純銀製のカップを争う男子テニス国・地域別対抗戦。1900年ハーバード大学の学生デビスDwight Davisらの提案を受けたアメリカテニス協会が、米英対抗戦として始めたのが起こりで、その際にデビスらが寄贈したカップが「デビスカップ」である。優勝チームにはレプリカが贈られる。この最初の試合は現在と同じく4シングルス、1ダブルスの対抗チームマッチで、1900年8月8日から3日間、ボストン郊外のロングウッドテニスクラブで行われ、3対0でアメリカが勝った。1904年、ベルギーオーストリア、フランスが加わり、続いてその翌年にはオーストラリアニュージーランドの混成チームによるオーストラレーシアが参加、13年国際テニス連盟が結成されるに至って、正式に国際テニス選手権と命名され、連盟自体の主催となった。その後参加国の増加に伴い、1923年にアメリカ・ヨーロッパゾーンができ、55年にはイースタンゾーンが設定された。さらにヨーロッパはA・B二つのゾーンに分割された。

 この競技当初、各ゾーンの優勝国がインターゾーン決勝を争い、その優勝国が前年度のカップ保持国に挑戦するチャレンジ・ラウンド制をとっていたが、1972年からは、カップ保持国も自己の属するゾーンから出場することになった。さらに1981年に方式が大幅に変わり、上位16か国によるワールドグループ・トーナメントで優勝を争うことになり、各ゾーンは次年度のための予選トーナメントになった。なお、デビスカップはアマチュアリズムを堅持していたが、テニス界の趨勢(すうせい)に順応し、1971年に至りオープン化に踏み切り、ふたたび世界のトッププレーヤーが参加できるようになり、81年からは賞金もつくことになった。1989年には、第5セットを除くすべてのセットにタイブレークが採用された。1997年には各ゾーン(地域)にグループⅡが設けられ、デビスカップに将来出場したいと考えていた国々に門戸が開かれた。

 過去の優勝回数は、アメリカが最も多く31回、ついでオーストラリア27回、イギリス9回、フランス9回、スウェーデン7回、ドイツ2回、南アフリカイタリアチェコスロバキアスペイン、ロシア各1回となっている(2002年現在)。

 日本のデビスカップへの初参加は1921年(大正10)で、熊谷一弥(くまがいいちや)、清水善造、柏尾誠一郎の3選手を派遣し、インド、オーストラリアを破り、デビスカップ保持国のアメリカへの挑戦権を得た。結果は0対5で敗れはしたが、日本のテニスが世界から注目されることになった。しかし以後これに匹敵する好成績はいまだあげるに至っていない。ワールドグループ制になってから、1981年、85年の二度、ワールドグループに出場している。

[三町正治・清水伸一]

その後の動き

2008年現在、過去の優勝回数は、アメリカ32回、オーストラリア28回、イギリス、フランス9回、スウェーデン7回、ドイツ(西ドイツ時代を含む)3回、スペイン、ロシア2回、南アフリカ、イタリア、チェコスロバキア、クロアチア1回となっている。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デビスカップ」の意味・わかりやすい解説

デビスカップ
Davis Cup

テニスの男子国別・地域別対抗戦。 1900年にアメリカ合衆国のテニス選手ドワイト・F.デービスが,アメリカとイギリス両国間の国際テニス試合開催にあたり,純銀製のカップを寄贈したことに始まる。両国の試合は 1883年頃から行なわれていたが,このカップの寄贈によってデビスカップ争奪試合が始まった。第1回大会はボストン郊外のロングウッドで行なわれ,デービス自身も出場してアメリカが優勝した。 1904年にはベルギーとフランスも参加。国際ローンテニス連盟 (国際テニス連盟 ) が結成されると,連盟主催の大会となり,参加国を増やしていった。 1981年大会形式が改められ,上位 16ヵ国で構成されるワールドグループと,その他の国々からなる地域ゾーンとに分かれ,毎年入れ替え戦が行なわれることになった。参加国からは4人まで出場でき,ワールドグループあるいは各地域ゾーン内のトーナメントで対戦する国と3日間かけてシングルス4試合,ダブルス1試合を行ない,先に3試合を制した国・地域が勝利する。

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