日本大百科全書(ニッポニカ) 「犬養毅内閣」の意味・わかりやすい解説
犬養毅内閣
いぬかいつよしないかく
(1931.12.13~1932.5.26 昭和6~7)
第二次世界大戦前期最後の政党内閣となった、犬養毅を首班とした政友会内閣。浜口雄幸(はまぐちおさち)、第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣と2代続いた民政党内閣が、民政党内の協力内閣運動で瓦解(がかい)した後を受けて成立した。少数与党で出発したが、1932年(昭和7)1月の衆議院解散、総選挙で圧勝し絶対多数を獲得した。浜口内閣における緊縮財政政策と幣原(しではら)外交を大きく転換させていった。蔵相高橋是清(たかはしこれきよ)は内閣成立後ただちに金輸出再禁止を断行、金本位制を離脱し管理通貨制へ移行させ、さらに財政・金融政策の基調をインフレ政策に転換した。積極的に財政を膨張させて、膨大な公債発行を財源に巨額の軍事費を支出した。このため1932年度から軍事費は急増していった。陸相には「革新派」として知られていた荒木貞夫(あらきさだお)を起用し、荒木陸相の下で陸軍では皇道派の勢力が拡大した。この間軍部による中国侵略はさらに進み、1932年1月には上海(シャンハイ)にまで戦火を広げ、関東軍は着々と「満州国」建設を進め、同年3月1日「満州国」の成立を宣言するに至った。政府の外交政策は軍部と森恪(もりかく)書記官長によってリードされ、上海事変の拡大、「満州国」建設の承認など、次々に軍部の独走を追認していった。同年の五・一五事件で犬養首相が暗殺され、内閣は崩壊し、斎藤実(さいとうまこと)内閣にかわった。このように犬養内閣は経済的にも政治的にも行き詰まりをみせていた民政党内閣の政策を大きく転換させたが、結果として軍部の政治的発言権を強化することになり政党内閣の終焉(しゅうえん)をもたらした。
[芳井研一]
『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書20』(2006・ゆまに書房)』