政治家、実業家。名は正しくは「つとむ」とよむ。大阪に生まれる。東京商工中学校卒業。早くから大陸雄飛を志し、三井物産支那(しな)修業生を経て1905年(明治38)同社上海(シャンハイ)支店員。支店長山本条太郎(じょうたろう)に重用され、孫文(そんぶん)との提携工作や中国興業(のち中日実業)の設立に活躍、同社取締役となり、利権獲得に手腕をみせる。益田孝(たかし)の姪(めい)と結婚。1914年(大正3)三井物産天津(てんしん)支店長。1920年退社して政友会から衆議院議員に当選した。党内でも急速に頭角を現し、1927年(昭和2)田中義一(ぎいち)内閣の外務政務次官(外相は田中の兼任)となり、東方会議を主宰するなど事実上外相の役を務めた。のち政友会幹事長。軍部と結んで積極的な侵略政策を推進、民政党の幣原(しではら)外交を攻撃した。満州事変後の1932年犬養毅(いぬかいつよし)内閣の書記官長に就任。同年末に急死した。政党人でありながら進んで軍部と結び、政党の自主性を失わせ、その没落とファシズムの台頭に大きな役割を果たした。
[岡部牧夫]
『山浦貫一著『森恪』(1982・原書房・明治百年史叢書)』
実業家,政治家。〈もりかく〉ともいう。戸籍上は1883年生れ。大阪府出身。商工中学卒業後,三井物産の清国留学生として上海支店に勤務,支店長山本条太郎の知遇をうけた。益田孝のめいと結婚,辛亥革命では革命派の援助による利権獲得につとめ,1914年天津支店長になった。この間1913年中国興業公司(コンス)(のち中日実業公司)の設立に加わったほか,独自に鉱山などの事業にあたり,〈東洋のセシル・ローズたらん〉との抱負をもって手腕をふるった。20年三井物産を退社,神奈川県から立候補して衆議院議員となり,政友会に属した。北伐に際して幣原外交の〈軟弱〉を攻撃,田中義一内閣で外務政務次官となり,東方会議では関東軍と連携して強硬な満蒙分離政策を唱えた。政友会幹事長となり,ロンドン条約をめぐり浜口雄幸内閣の統帥権干犯,幣原喜重郎首相代理失言問題を追及した。対満強硬策を高唱し,犬養毅内閣の内閣書記官長に就任,軍部と提携して満州事変の推進にあたったが病のため中途にて没す。
執筆者:江口 圭一
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大正・昭和期の政治家,実業家 衆院議員;政友会幹事長;内閣書記官長。
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1882.12.28~1932.12.11
名は「かく」とも。大正・昭和前期の実業家・政治家。大阪府出身。中国に渡り,三井物産入社。革命派に接近して利権の獲得に努め,1913年(大正2)中国興業設立。20年三井物産を退社し,政友会に所属して衆議院議員に当選。27年(昭和2)田中義一内閣の外務政務次官となり,山東出兵・東方会議を推進。以後政友会幹事長,犬養(いぬかい)内閣書記官長を歴任。終始大陸政策の急先鋒であった。
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…実業家,政治家。〈もりかく〉ともいう。戸籍上は1883年生れ。大阪府出身。商工中学卒業後,三井物産の清国留学生として上海支店に勤務,支店長山本条太郎の知遇をうけた。益田孝のめいと結婚,辛亥革命では革命派の援助による利権獲得につとめ,1914年天津支店長になった。この間1913年中国興業公司(コンス)(のち中日実業公司)の設立に加わったほか,独自に鉱山などの事業にあたり,〈東洋のセシル・ローズたらん〉との抱負をもって手腕をふるった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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