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高橋是清 たかはし これきよ

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美術人名辞典の解説

高橋是清

政治家。東京生。号は茜庵・秀幸。藩費留学生として渡米後、官界に入り、日本銀行総裁大蔵大臣・商工大臣・農林大臣・内閣総理大臣等を歴任。二・二六事件により昭和11年(1936)歿、83才。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

高橋是清

特許や商標など、日本の産業財産権制度の生みの親と言われる。明治時代の制度創設期に官僚として関係立法や制度運営の指揮を執り、制度を根付かせた。昭和恐慌から日本経済を回復させるなど、財政家としての評価が高い。蔵相だった1936年、軍事費抑制をめぐり軍部と対立し2・26事件で殺害された。

(2014-03-25 朝日新聞 朝刊 2社会)

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デジタル大辞泉の解説

たかはし‐これきよ【高橋是清】

[1854~1936]財政家・政治家。江戸の生まれ。日本銀行総裁・蔵相を経て、首相・政友会総裁などを歴任。昭和初期にも再三蔵相を務め、金融恐慌・世界大恐慌に対処。二・二六事件で暗殺された。

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百科事典マイペディアの解説

高橋是清【たかはしこれきよ】

政治家,財政家。江戸の絵師の子に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。1867年―1869年米国で苦学,帰国後森有礼(ありのり)の書生となり,文部省を経て農商務省に入省。
→関連項目犬養毅内閣井上財政加藤友三郎内閣高橋財政

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高橋是清 たかはし-これきよ

1854-1936 明治-昭和時代前期の政治家。
嘉永(かえい)7年閏(うるう)7月27日生まれ。明治44年日銀総裁。大正10年暗殺された原敬(たかし)のあと首相・政友会総裁となる。13年衆議院議員。昭和2年の金融恐慌では蔵相として支払猶予令を施行,6年金輸出再禁止を実施。11年2月26日二・二六事件で暗殺された。83歳。江戸出身。本姓は川村。幼名は和喜次。著作に「経済論」「高橋是清自伝」など。
【格言など】景気がよくなれば,公債は漸減する

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朝日日本歴史人物事典の解説

高橋是清

没年:昭和11.2.26(1936)
生年:安政1.閏7.17(1854.9.9)
明治から昭和期にかけての銀行家,財政家,政治家。川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。横浜において英語を学び,慶応3(1867)年仙台藩の留学生として渡米,奴隷に売られるなどの辛酸をなめ,翌明治1(1868)年末帰国,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,同14年文部省に入り,すぐ農商務省に転じて商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。22年,辞職してペルーの銀山の経営に当たったが失敗して,財産を失い逼塞。25年,総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職,26年正社員となり西部支店長(下関)として成績をあげ,28年横浜正金銀行本店支配人,30年副頭取として経営を刷新,32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。37年,日露戦争に際して外債募集のため2度にわたって英米両国に出張し,戦費および内国債償還のため,5回にわたり1億500万ポンド(約9億円)の募債に成功。38年貴族院議員,40年男爵,44年日銀総裁。このころより原敬と積極的な財政政策について意見が一致し,大正2(1913)年山本権兵衛内閣に蔵相として入閣,政友会入党。同7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとり,10年原暗殺ののち首相総裁を引き継いだ。13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選,加藤高明内閣に農商務相として入閣。14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣,犬養,斎藤,岡田の各内閣に入閣,昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年,2・26事件の際暗殺された。

(中村隆英)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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江戸・東京人物辞典の解説

高橋是清

1854〜1936(安政元年〜昭和11年)【政治家】転んでもただでは起きなかった、ダルマ蔵相。 金融危機を大胆に舵取り。明治?昭和戦前期の政治家・財政家。幕府御用絵師の子として江戸に生まれ、仙台藩士高橋是忠の養子となった。藩の留学生となり渡米後、農商務省官吏などをへて、1889年(明治22)銀鉱開発のためペルーに渡るが失敗。92年日本銀行に入行。金本位制確立や日露戦争の外債募集で活躍し、1911年総裁に就任。1913年(大正2)第一次山本内閣の蔵相に就任して政界に入る。以後4度蔵相を努め、27年田中義一内閣の債務モラトリアム公布、1931年(昭和6)犬養内閣金輸出再禁止など大胆な財政政策をとった。1936年に二・二六事件で暗殺された。

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監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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世界大百科事典 第2版の解説

たかはしこれきよ【高橋是清】

1854‐1936(安政1‐昭和11)
近代日本の財政家,政治家。幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた。幼名和喜次。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受けた。

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大辞林 第三版の解説

たかはしこれきよ【高橋是清】

1854~1936) 政治家・財政家。江戸生まれ。日銀総裁を経て、蔵相を歴任。1921年(大正10)首相。政友会総裁。護憲三派運動に参加し、農商務相。岡田内閣の蔵相の時、二・二六事件で暗殺された。

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高橋是清
たかはしこれきよ

[生]嘉永7(1854).7.27. 江戸
[没]1936.2.26. 東京
政治家,財政家。江戸幕府御用絵師川村家に生れ,仙台藩士高橋是忠の養子となった。慶応3 (1867) ~明治2 (69) 年留学生として渡米,苦学した。 1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高橋是清
たかはしこれきよ
(1854―1936)

明治・大正・昭和期の財政家、政治家。嘉永(かえい)7年閏(うるう)7月27日、幕府御用絵師の子として江戸に生まれ、仙台藩足軽の養子となる。藩の留学生として1867年(慶応3)渡米して苦学し、1869年(明治2)帰国。大学南校の英語教師などを務めたのち、1873年文部省に出仕、農商務省に転じて初代の特許局長にまで昇進した。しかし海外雄飛を志し、1889年官を辞してペルーの銀山開発に出かけて失敗。帰国後1892年川田小一郎(かわたこいちろう)日銀総裁に認められて日本銀行に入り、西部支店長、横浜正金銀行本店支配人、同行副頭取を経て、1899年から1911年(明治44)まで日銀副総裁に在任。その間、日露戦争の戦費を調達するため、政府からイギリスに派遣されて外債募集に成功し、その功により男爵を授かった。1911年日銀総裁に就任したが、1913年(大正2)山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の蔵相となって政友会に入党した。以来、大正から昭和にかけて、原敬(はらたかし)、高橋、田中義一(たなかぎいち)、犬養毅(いぬかいつよし)、斎藤実(さいとうまこと)、岡田啓介(おかだけいすけ)の各内閣でそれぞれ蔵相を務め、その間、1921年原敬首相暗殺ののち、総理大臣、政友会総裁にもなった。また、1924年の第二次護憲運動で爵位と貴族院の議席をなげうって代議士に当選し、護憲三派内閣の農商務大臣にもなった。高橋は若いころ放蕩(ほうとう)もしたが、後年銀行家、財政家としての信用が厚く、1927年(昭和2)の金融恐慌では銀行取付けの最中に金融界の救世主として蔵相に就任、モラトリアムを施行して恐慌を沈静させた。また1930年から翌年にかけての昭和恐慌では、大不況に陥り金の流出が続くなかで、1931年12月望まれて蔵相となり、金輸出再禁止を断行、続いて大量の国債を発行して、財政資金を呼び水にして景気にてこ入れし、国債の市場操作を通じる景気調節政策を導入して、恐慌からの脱出に成功した。しかし、無制限な財政膨張を抑制するため、1935年公債漸減主義に転じ、軍部の軍事費拡大の要求を抑えたため、翌年二・二六事件で青年将校によって暗殺された。[大森とく子]
『『高橋是清自伝』(中公文庫) ▽今村武雄著『高橋是清』(1948・時事通信社) ▽松元崇著『大恐慌を駆け抜けた男高橋是清』(2009・中央公論新社) ▽後藤新一著『高橋是清――日本のケインズ』(日経新書) ▽大島清著『高橋是清――財政家の数奇な生涯』(中公新書)』

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世界大百科事典内の高橋是清の言及

【過激社会運動取締法案】より

…第1次世界大戦後の新たな社会運動の高揚に対し,治安対策の整備強化のため,1922年2月高橋是清内閣が貴族院に提出した法案。その内容は,無政府主義,共産主義など〈朝憲を紊乱(びんらん)する〉事項を宣伝しまたは宣伝しようとしたものは7年以下,そのための結社・集会・運動については10年以下,社会の根本組織を暴力的手段で変革することを宣伝しまたは宣伝しようとしたものは5年以下の懲役または禁錮に処す,というものであった。…

【政友会】より

…しかし,首相原敬の強力なリーダーシップと政党基盤の拡大政策が党利党略に出るものであるとの批判が高まり,21年11月原首相が暗殺されるという事態を招いた。
[混迷・分裂・解散]
 原の死後,蔵相高橋是清が組閣して引き続き政権を担当するが,党内の対立が表面化して翌年総辞職を余儀なくされた。政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。…

【政友本党】より

…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。…

【大正時代】より

…原敬は普選を拒否し,小選挙区制を実現して衆議院で政友会の絶対多数を確保したうえ,軍備拡張,高等教育機関の充実,交通機関の整備などに膨大な予算をつぎこみ,党勢を拡張したが,強引な政策は汚職事件を続発させ,21年11月暗殺された。後継首相の新政友会総裁高橋是清は経済不況に対応して積極政策からの転換を試み,党内に内紛を生じ,緊縮財政と普選を主張する憲政会への期待が高まった。22年初めのワシントン会議により,ワシントン体制と呼ばれるアジアの新国際秩序が形成され,日本は日英同盟と石井=ランシング協定を失い,山東省の旧ドイツ利権を中国に返還し,シベリアからの撤兵を余儀なくされた。…

【台湾銀行】より

…しかし,若槻の対中国協調外交に不満を持つ伊東巳代治らにより枢密院で勅令案が否決され,4月18日に台銀の内地および海外支店は休業に追い込まれた。若槻首相辞任後の田中義一内閣の蔵相高橋是清は同年5月に〈台湾ノ金融機関ニ対スル資金融通ニ関スル法律〉を成立させ,台銀の再建を始めた(台湾銀行救済問題)。その後,経営回復は順調に進んだが,準戦時・戦時下の業務の重点はふたたび台湾島内に移され,業務はあまり活発ではなかった。…

【高橋財政】より

…高橋是清が主導した財政。高橋は7代の内閣で蔵相になったが,特色ある財政運営は,原敬,高橋是清内閣時代と犬養毅,斎藤実,岡田啓介内閣時代に見られ,一般には後者を高橋財政と呼んでいる。…

【特許】より

…このようなことを背景に特許制度の創設を望む世論も高まり,85年に専売特許条例が制定された。この条例は欧米の特許制度を調査した高橋是清により起草されたものであり,高橋自身が初代の専売特許所所長となった。この条例は近代特許法の要素をほとんど取り入れており,ここに日本の特許制度の基盤が成立したといえる。…

【特許庁】より

…さらに86年2月に農商務官制の公布とともに新たに専売特許および商標登録の事務を管掌する〈専売特許局〉が設置されたのがその前身である。88年高橋是清局長の下ではじめて庶務部,審査部,審判部の3部が並立する現在の官制の原型が整えられた。その後官制改正に伴ういくたの変遷があったが,1949年に通商産業省設置法の公布によりその外局となり,現在に至っている。…

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