高橋是清(読み)タカハシコレキヨ

デジタル大辞泉 「高橋是清」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐これきよ【高橋是清】

[1854~1936]財政家政治家。江戸の生まれ。日本銀行総裁・蔵相を経て、首相・政友会総裁などを歴任。昭和初期にも再三蔵相を務め、金融恐慌・世界大恐慌に対処。二・二六事件で暗殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「高橋是清」の意味・読み・例文・類語

たかはし‐これきよ【高橋是清】

  1. 政治家。財政家。江戸の人。仙台藩士高橋是忠の養子。米国留学後森有礼の書生となる。開成学校卒業。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治四四年(一九一一日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相などの要職を歴任。昭和一一年(一九三六)の二・二六事件で暗殺された。嘉永七~昭和一一年(一八五四‐一九三六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高橋是清」の意味・わかりやすい解説

高橋是清
たかはしこれきよ
(1854―1936)

明治・大正・昭和期の財政家、政治家。嘉永(かえい)7年閏(うるう)7月27日、幕府御用絵師の子として江戸に生まれ、仙台藩足軽の養子となる。藩の留学生として1867年(慶応3)渡米して苦学し、1869年(明治2)帰国。大学南校の英語教師などを務めたのち、1873年文部省に出仕、農商務省に転じて初代の特許局長にまで昇進した。しかし海外雄飛を志し、1889年官を辞してペルーの銀山開発に出かけて失敗。帰国後1892年川田小一郎(かわたこいちろう)日銀総裁に認められて日本銀行に入り、西部支店長、横浜正金銀行本店支配人、同行副頭取を経て、1899年から1911年(明治44)まで日銀副総裁に在任。その間、日露戦争の戦費を調達するため、政府からイギリスに派遣されて外債募集に成功し、その功により男爵を授かった。1911年日銀総裁に就任したが、1913年(大正2)山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の蔵相となって政友会に入党した。以来、大正から昭和にかけて、原敬(はらたかし)、高橋、田中義一(たなかぎいち)、犬養毅(いぬかいつよし)、斎藤実(さいとうまこと)、岡田啓介(おかだけいすけ)の各内閣でそれぞれ蔵相を務め、その間、1921年原敬首相暗殺ののち、総理大臣、政友会総裁にもなった。また、1924年の第二次護憲運動で爵位と貴族院の議席をなげうって代議士に当選し、護憲三派内閣の農商務大臣にもなった。高橋は若いころ放蕩(ほうとう)もしたが、後年銀行家、財政家としての信用が厚く、1927年(昭和2)の金融恐慌では銀行取付けの最中に金融界の救世主として蔵相に就任、モラトリアムを施行して恐慌を沈静させた。また1930年から翌年にかけての昭和恐慌では、大不況に陥り金の流出が続くなかで、1931年12月望まれて蔵相となり、金輸出再禁止を断行、続いて大量の国債を発行して、財政資金を呼び水にして景気にてこ入れし、国債の市場操作を通じる景気調節政策を導入して、恐慌からの脱出に成功した。しかし、無制限な財政膨張を抑制するため、1935年公債漸減主義に転じ、軍部の軍事費拡大の要求を抑えたため、翌年二・二六事件で青年将校によって暗殺された。

[大森とく子]

『『高橋是清自伝』(中公文庫)』『今村武雄著『高橋是清』(1948・時事通信社)』『松元崇著『大恐慌を駆け抜けた男高橋是清』(2009・中央公論新社)』『後藤新一著『高橋是清――日本のケインズ』(日経新書)』『大島清著『高橋是清――財政家の数奇な生涯』(中公新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「高橋是清」の意味・わかりやすい解説

高橋是清 (たかはしこれきよ)
生没年:1854-1936(安政1-昭和11)

近代日本の財政家,政治家。幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた。幼名和喜次。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受けた。11年日銀総裁に昇任した。

 1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。20年子爵。21年11月原敬暗殺のあとを受け,政友会総裁と首相の座を継承。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,政治力が欠けていたこともあり党内対立を招き,内閣改造に失敗し,22年6月辞職。24年1月清浦奎吾内閣成立に対し第2次護憲運動がおこると,爵位を返上し,貴族院議員を辞任して運動に加わることを表明,原敬の選挙区盛岡市より当選した。政友本党の分裂で政友会は第3党に落ち,高橋は加藤高明の要請で護憲三派内閣の農商務相に就任したが,25年5月,政友会総裁を田中義一に譲り閣外に去った。27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任,その無欲と政財界における信用度を示す。

 満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立するとまたも蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を1.2億円から一挙に10億円に拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け射殺された。無欲な人柄で〈だるま〉の愛称のもとに大衆的人気をもった彼の不慮の死は世人の同情を集めた。
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百科事典マイペディア 「高橋是清」の意味・わかりやすい解説

高橋是清【たかはしこれきよ】

政治家,財政家。江戸の絵師の子に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。1867年―1869年米国で苦学,帰国後森有礼(ありのり)の書生となり,文部省を経て農商務省に入省。1892年日本銀行に入行,1895年横浜正金銀行に転じ,1899年日銀副総裁。日露戦争外債募集に活躍し,のち日銀総裁。山本権兵衛・原敬内閣の蔵相を歴任,1921年原敬暗殺のあとをうけ首相,政友会総裁となった。1927年田中義一内閣の蔵相となり金融恐慌を支払猶予令モラトリアム)で収拾。犬養毅,斎藤実,岡田啓介各内閣の蔵相を務め金輸出の再禁止(金解禁),赤字公債発行などを行い〈高橋財政〉と呼ばれる軍需インフレ政策を推進。二・二六事件で暗殺。→高橋是清内閣
→関連項目犬養毅内閣井上財政加藤友三郎内閣高橋財政

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「高橋是清」の解説

高橋 是清
タカハシ コレキヨ


肩書
第20代首相,蔵相,政友会総裁,日銀総裁

別名
幼名=和喜次

生年月日
嘉永7年閏7月27日(1854年)

出生地
江戸・芝露月町

経歴
慶応3年仙台藩留学生として渡米。維新後帰国し、森有礼の書生、相場師などののち、明治14年農商務省に入り、20年初代特許局長。22年ペルーで銀山開発を行うが失敗。25年日銀に入行し、32年副総裁、44年総裁。39年から横浜正金銀行頭取を兼任、財政家としての名声を得る。また38年勅選貴院議員となり、大正2年第1次山本内閣、7年原内閣の蔵相、10年原暗殺の後首相兼蔵相に就任。13年第2次護憲運動に加わり衆院議員に当選、加藤内閣の農商務相、田中・犬養・斎藤・岡田各内閣の蔵相をつとめ、金融恐慌後のモラトリアム、大恐慌後の軍需インフレ政策を敢行。その後も日銀の発行限度額を10億に引きあげるなど景気回復に大きな足跡を残し、“だるま”の愛称で親しまれたが、軍事抑制の予算案が軍部の反感を買って、昭和11年2.26事件で青年将校の襲撃を受け射殺された。「随想録」「高橋是清自伝」がある。平成9年にはロシア革命後に散逸したロマノフ王朝の金貨が、高橋の直接の指示で軍用品に偽装されて日本に移送、日本の金貨に鋳造し直されていた史実が明らかになった。

受賞
大勲位菊花大綬章

没年月日
昭和11年2月26日

家族
父=川村 庄右衛門(御用絵師) 養父=高橋 是忠(仙台藩士) 六男=高橋 是彰(大倉商事取締役) 孫=藤間 苑素娥(舞踏家) 高橋 賢一(北海道議) 高橋 正治(三井物産副社長)

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「高橋是清」の解説

高橋 是清
タカハシ コレキヨ

明治〜昭和期の政治家,財政家 首相;蔵相;政友会総裁;日銀総裁。



生年
嘉永7年閏7月27日(1854年)

没年
昭和11(1936)年2月26日

出生地
江戸・芝露月町(東京都港区)

別名
幼名=和喜次

主な受賞名〔年〕
大勲位菊花大綬章

経歴
慶応3年仙台藩留学生として渡米。維新後帰国し、森有礼の書生、相場師などののち、明治14年農商務省に入り、20年初代特許局長。22年ペルーで銀山開発を行うが失敗。25年日銀に入行し、32年副総裁、44年総裁。39年から横浜正金銀行頭取を兼任、財政家としての名声を得る。また38年勅選貴院議員となり、大正2年第1次山本内閣、7年原内閣の蔵相、10年原暗殺の後首相兼蔵相に就任。13年第2次護憲運動に加わり衆院議員に当選、加藤内閣の農商務相、田中・犬養・斎藤・岡田各内閣の蔵相をつとめ、金融恐慌後のモラトリアム、大恐慌後の軍需インフレ政策を敢行。その後も日銀の発行限度額を10億に引きあげるなど景気回復に大きな足跡を残し、“だるま”の愛称で親しまれたが、軍事抑制の予算案が軍部の反感を買って、昭和11年2.26事件で青年将校の襲撃を受け射殺された。「随想録」「高橋是清自伝」がある。平成9年にはロシア革命後に散逸したロマノフ王朝の金貨が、高橋の直接の指示で軍用品に偽装されて日本に移送、日本の金貨に鋳造し直されていた史実が明らかになった。

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朝日日本歴史人物事典 「高橋是清」の解説

高橋是清

没年:昭和11.2.26(1936)
生年:安政1.閏7.17(1854.9.9)
明治から昭和期にかけての銀行家,財政家,政治家。川村家の庶子として江戸に生まれ,仙台藩足軽高橋家の養子となる。横浜において英語を学び,慶応3(1867)年仙台藩の留学生として渡米,奴隷に売られるなどの辛酸をなめ,翌明治1(1868)年末帰国,森有礼の学僕となる。大学南校(東京大学)に入学,次いで教官3等手伝いとなったが放蕩のため辞職。以後多くの職業を経験したのち,同14年文部省に入り,すぐ農商務省に転じて商標登録,発明の専売特許の制度の立案実施に当たり,専売特許局長となる。22年,辞職してペルーの銀山の経営に当たったが失敗して,財産を失い逼塞。25年,総裁川田小十郎の世話で日本銀行の建築所事務主任に就職,26年正社員となり西部支店長(下関)として成績をあげ,28年横浜正金銀行本店支配人,30年副頭取として経営を刷新,32年日本銀行の内紛に際し日本銀行副総裁となる。37年,日露戦争に際して外債募集のため2度にわたって英米両国に出張し,戦費および内国債償還のため,5回にわたり1億500万ポンド(約9億円)の募債に成功。38年貴族院議員,40年男爵,44年日銀総裁。このころより原敬と積極的な財政政策について意見が一致し,大正2(1913)年山本権兵衛内閣に蔵相として入閣,政友会入党。同7年原内閣の蔵相として,鉄道,電話,教育などの支出を拡張して積極政策をとり,10年原暗殺ののち首相総裁を引き継いだ。13年の第2次護憲運動の際には隠居して衆議院に当選,加藤高明内閣に農商務相として入閣。14年総裁を辞して政界を引退したが,その後も蔵相として田中内閣,犬養,斎藤,岡田の各内閣に入閣,昭和恐慌後の景気回復を実現させ,「高橋財政」時代を築いたが,昭和11年,2・26事件の際暗殺された。

(中村隆英)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高橋是清」の意味・わかりやすい解説

高橋是清
たかはしこれきよ

[生]嘉永7(1854).7.27. 江戸
[没]1936.2.26. 東京
政治家,財政家。江戸幕府御用絵師川村家に生れ,仙台藩士高橋是忠の養子となった。慶応3 (1867) ~明治2 (69) 年留学生として渡米,苦学した。 1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。 18年原敬内閣の蔵相を歴任,辣腕をふるう。 21年 10月原敬暗殺のあとを受けて,政友会総裁,首相となる。しかし,党内対立から 22年6月に辞職。その後,27年の金融恐慌に際し,同4月 22日田中義一内閣の蔵相として3週間の支払猶予緊急勅令 (→モラトリアム ) を公布。以後,犬養,斎藤,岡田3内閣の蔵相として財政問題処理に腕をふるったが,軍部と衝突し,二・二六事件で暗殺された。著書に『高橋是清自伝』 (1936) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高橋是清」の解説

高橋是清
たかはしこれきよ

1854.閏7.27~1936.2.26

明治~昭和戦前期の政治家・財政家。江戸生れ。幕府御用絵師川村庄右衛門の子で,仙台藩士高橋是忠の養子。農商務省官吏などをへて,1889年(明治22)銀鉱開発のためペルーに渡るが失敗。92年に総裁川田小一郎の招きで日本銀行に入行。99年2月日本銀行副総裁になり,金本位制確立や日露戦争の戦費調達のための外債募集で活躍し,1911年総裁に就任。05年貴族院議員。13年(大正2)第1次山本内閣の蔵相に就任後,立憲政友会に入党。原内閣の蔵相をへて,21年には首相兼蔵相,政友会総裁となる。護憲三派内閣の農商務相を務め,田中義一内閣では蔵相として金融恐慌対策に従事した。31年(昭和6)12月の犬養内閣の蔵相就任後,金輸出再禁止に始まる高橋財政を展開したが,36年に公債漸減による財政引締めの方針をとって軍部と対立,2・26事件で殺害された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高橋是清」の解説

高橋是清 たかはし-これきよ

1854-1936 明治-昭和時代前期の政治家。
嘉永(かえい)7年閏(うるう)7月27日生まれ。明治44年日銀総裁。大正10年暗殺された原敬(たかし)のあと首相・政友会総裁となる。13年衆議院議員。昭和2年の金融恐慌では蔵相として支払猶予令を施行,6年金輸出再禁止を実施。11年2月26日二・二六事件で暗殺された。83歳。江戸出身。本姓は川村。幼名は和喜次。著作に「経済論」「高橋是清自伝」など。
【格言など】景気がよくなれば,公債は漸減する

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旺文社日本史事典 三訂版 「高橋是清」の解説

高橋是清
たかはしこれきよ

1854〜1936
明治〜昭和期の政治家・財政家
江戸の生まれ。1867年渡米,苦学し,帰国後官吏となる。'92年日本銀行に入り,のち日銀総裁。その間日露戦争にあたって外債募集に尽力した。1921年原敬暗殺後に首相・立憲政友会総裁に就任。'27年金融恐慌に際して,田中義一内閣の蔵相として支払猶予令(モラトリアム)を実施して収束。満州事変後犬養毅・斎藤実 (まこと) ・岡田啓介各内閣の蔵相を歴任し,積極財政を推進して,恐慌を克服したが,'36年二・二六事件で暗殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の高橋是清の言及

【過激社会運動取締法案】より

…第1次世界大戦後の新たな社会運動の高揚に対し,治安対策の整備強化のため,1922年2月高橋是清内閣が貴族院に提出した法案。その内容は,無政府主義,共産主義など〈朝憲を紊乱(びんらん)する〉事項を宣伝しまたは宣伝しようとしたものは7年以下,そのための結社・集会・運動については10年以下,社会の根本組織を暴力的手段で変革することを宣伝しまたは宣伝しようとしたものは5年以下の懲役または禁錮に処す,というものであった。…

【政友会】より

…しかし,首相原敬の強力なリーダーシップと政党基盤の拡大政策が党利党略に出るものであるとの批判が高まり,21年11月原首相が暗殺されるという事態を招いた。
[混迷・分裂・解散]
 原の死後,蔵相高橋是清が組閣して引き続き政権を担当するが,党内の対立が表面化して翌年総辞職を余儀なくされた。政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。…

【政友本党】より

…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。…

【大正時代】より

…原敬は普選を拒否し,小選挙区制を実現して衆議院で政友会の絶対多数を確保したうえ,軍備拡張,高等教育機関の充実,交通機関の整備などに膨大な予算をつぎこみ,党勢を拡張したが,強引な政策は汚職事件を続発させ,21年11月暗殺された。後継首相の新政友会総裁高橋是清は経済不況に対応して積極政策からの転換を試み,党内に内紛を生じ,緊縮財政と普選を主張する憲政会への期待が高まった。22年初めのワシントン会議により,ワシントン体制と呼ばれるアジアの新国際秩序が形成され,日本は日英同盟と石井=ランシング協定を失い,山東省の旧ドイツ利権を中国に返還し,シベリアからの撤兵を余儀なくされた。…

【台湾銀行】より

…しかし,若槻の対中国協調外交に不満を持つ伊東巳代治らにより枢密院で勅令案が否決され,4月18日に台銀の内地および海外支店は休業に追い込まれた。若槻首相辞任後の田中義一内閣の蔵相高橋是清は同年5月に〈台湾ノ金融機関ニ対スル資金融通ニ関スル法律〉を成立させ,台銀の再建を始めた(台湾銀行救済問題)。その後,経営回復は順調に進んだが,準戦時・戦時下の業務の重点はふたたび台湾島内に移され,業務はあまり活発ではなかった。…

【高橋財政】より

…高橋是清が主導した財政。高橋は7代の内閣で蔵相になったが,特色ある財政運営は,原敬,高橋是清内閣時代と犬養毅,斎藤実,岡田啓介内閣時代に見られ,一般には後者を高橋財政と呼んでいる。…

【特許】より

…このようなことを背景に特許制度の創設を望む世論も高まり,85年に専売特許条例が制定された。この条例は欧米の特許制度を調査した高橋是清により起草されたものであり,高橋自身が初代の専売特許所所長となった。この条例は近代特許法の要素をほとんど取り入れており,ここに日本の特許制度の基盤が成立したといえる。…

【特許庁】より

…さらに86年2月に農商務官制の公布とともに新たに専売特許および商標登録の事務を管掌する〈専売特許局〉が設置されたのがその前身である。88年高橋是清局長の下ではじめて庶務部,審査部,審判部の3部が並立する現在の官制の原型が整えられた。その後官制改正に伴ういくたの変遷があったが,1949年に通商産業省設置法の公布によりその外局となり,現在に至っている。…

※「高橋是清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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