明治・大正・昭和期の財政家、政治家。嘉永(かえい)7年閏(うるう)7月27日、幕府御用絵師の子として江戸に生まれ、仙台藩足軽の養子となる。藩の留学生として1867年(慶応3)渡米して苦学し、1869年(明治2)帰国。大学南校の英語教師などを務めたのち、1873年文部省に出仕、農商務省に転じて初代の特許局長にまで昇進した。しかし海外雄飛を志し、1889年官を辞してペルーの銀山開発に出かけて失敗。帰国後1892年川田小一郎(かわたこいちろう)日銀総裁に認められて日本銀行に入り、西部支店長、横浜正金銀行本店支配人、同行副頭取を経て、1899年から1911年(明治44)まで日銀副総裁に在任。その間、日露戦争の戦費を調達するため、政府からイギリスに派遣されて外債募集に成功し、その功により男爵を授かった。1911年日銀総裁に就任したが、1913年(大正2)山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の蔵相となって政友会に入党した。以来、大正から昭和にかけて、原敬(はらたかし)、高橋、田中義一(たなかぎいち)、犬養毅(いぬかいつよし)、斎藤実(さいとうまこと)、岡田啓介(おかだけいすけ)の各内閣でそれぞれ蔵相を務め、その間、1921年原敬首相暗殺ののち、総理大臣、政友会総裁にもなった。また、1924年の第二次護憲運動で爵位と貴族院の議席をなげうって代議士に当選し、護憲三派内閣の農商務大臣にもなった。高橋は若いころ放蕩(ほうとう)もしたが、後年銀行家、財政家としての信用が厚く、1927年(昭和2)の金融恐慌では銀行取付けの最中に金融界の救世主として蔵相に就任、モラトリアムを施行して恐慌を沈静させた。また1930年から翌年にかけての昭和恐慌では、大不況に陥り金の流出が続くなかで、1931年12月望まれて蔵相となり、金輸出再禁止を断行、続いて大量の国債を発行して、財政資金を呼び水にして景気にてこ入れし、国債の市場操作を通じる景気調節政策を導入して、恐慌からの脱出に成功した。しかし、無制限な財政膨張を抑制するため、1935年公債漸減主義に転じ、軍部の軍事費拡大の要求を抑えたため、翌年二・二六事件で青年将校によって暗殺された。
[大森とく子]
『『高橋是清自伝』(中公文庫)』▽『今村武雄著『高橋是清』(1948・時事通信社)』▽『松元崇著『大恐慌を駆け抜けた男高橋是清』(2009・中央公論新社)』▽『後藤新一著『高橋是清――日本のケインズ』(日経新書)』▽『大島清著『高橋是清――財政家の数奇な生涯』(中公新書)』
近代日本の財政家,政治家。幕府の絵師川村庄右衛門の庶子として江戸に生まれた。幼名和喜次。仙台藩足軽高橋是忠の養子となる。1867年(慶応3)藩の留学生として渡米し苦学。翌年帰国し森有礼の書生となり,大学南校に入学。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。90年ペルーの銀山開発に失敗。92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受けた。11年日銀総裁に昇任した。
1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。18年原敬内閣の蔵相に就任,政友会の積極政策を財政面で推進した。20年子爵。21年11月原敬暗殺のあとを受け,政友会総裁と首相の座を継承。ワシントン体制と国内の戦後不況・階級闘争の激化に対応する協調的新政策路線を模索したが,政治力が欠けていたこともあり党内対立を招き,内閣改造に失敗し,22年6月辞職。24年1月清浦奎吾内閣成立に対し第2次護憲運動がおこると,爵位を返上し,貴族院議員を辞任して運動に加わることを表明,原敬の選挙区盛岡市より当選した。政友本党の分裂で政友会は第3党に落ち,高橋は加藤高明の要請で護憲三派内閣の農商務相に就任したが,25年5月,政友会総裁を田中義一に譲り閣外に去った。27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任,その無欲と政財界における信用度を示す。
満州事変勃発後政友会犬養毅内閣が成立するとまたも蔵相として入閣,大恐慌によって破綻した民政党の金解禁・緊縮財政・非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を1.2億円から一挙に10億円に拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。この一連の政策により,貿易は伸張し景気はいちじるしく回復した。しかし軍部の軍拡要求はとどまるところを知らず,34年11月政友会の反対を押し切って岡田啓介内閣の蔵相に就任した高橋は,36年度予算編成にあたり悪性インフレを警戒して軍事費抑制の姿勢を示した。このため青年将校の恨みを買い,二・二六事件で襲撃を受け射殺された。無欲な人柄で〈だるま〉の愛称のもとに大衆的人気をもった彼の不慮の死は世人の同情を集めた。
執筆者:松尾 尊兊
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明治〜昭和期の政治家,財政家 首相;蔵相;政友会総裁;日銀総裁。
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(中村隆英)
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1854.閏7.27~1936.2.26
明治~昭和戦前期の政治家・財政家。江戸生れ。幕府御用絵師川村庄右衛門の子で,仙台藩士高橋是忠の養子。農商務省官吏などをへて,1889年(明治22)銀鉱開発のためペルーに渡るが失敗。92年に総裁川田小一郎の招きで日本銀行に入行。99年2月日本銀行副総裁になり,金本位制確立や日露戦争の戦費調達のための外債募集で活躍し,1911年総裁に就任。05年貴族院議員。13年(大正2)第1次山本内閣の蔵相に就任後,立憲政友会に入党。原内閣の蔵相をへて,21年には首相兼蔵相,政友会総裁となる。護憲三派内閣の農商務相を務め,田中義一内閣では蔵相として金融恐慌対策に従事した。31年(昭和6)12月の犬養内閣の蔵相就任後,金輸出再禁止に始まる高橋財政を展開したが,36年に公債漸減による財政引締めの方針をとって軍部と対立,2・26事件で殺害された。
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…第1次世界大戦後の新たな社会運動の高揚に対し,治安対策の整備強化のため,1922年2月高橋是清内閣が貴族院に提出した法案。その内容は,無政府主義,共産主義など〈朝憲を紊乱(びんらん)する〉事項を宣伝しまたは宣伝しようとしたものは7年以下,そのための結社・集会・運動については10年以下,社会の根本組織を暴力的手段で変革することを宣伝しまたは宣伝しようとしたものは5年以下の懲役または禁錮に処す,というものであった。…
…しかし,首相原敬の強力なリーダーシップと政党基盤の拡大政策が党利党略に出るものであるとの批判が高まり,21年11月原首相が暗殺されるという事態を招いた。
[混迷・分裂・解散]
原の死後,蔵相高橋是清が組閣して引き続き政権を担当するが,党内の対立が表面化して翌年総辞職を余儀なくされた。政友会は,次の加藤友三郎内閣には与党としてこれを支持したが,1923年9月に成立した第2次山本内閣には野党の立場をとり,続く清浦奎吾内閣が貴族院議員を中心に組閣されると,24年高橋総裁ら主流派は憲政会,革新俱楽部とともに護憲三派を形成して第2次護憲運動をおこした。…
…立憲政友会(政友会)から分裂した政党。1921年11月原敬暗殺後,政友会内は,第1次大戦後の不況や普選運動の高揚に対応して財政緊縮や普選問題の解決を企図する高橋是清総裁,横田千之助ら改造派(のち非改革派)と,積極財政・普選反対等の従来の政友会路線を維持しようとする床次(とこなみ)竹二郎,中橋徳五郎ら非改造派(のち改革派)の対立が激化した。24年1月清浦奎吾(けいご)内閣の成立を契機に,前者は憲政会,革新俱楽部と結び普選等をスローガンに第2次護憲運動を起こし,後者は脱党して政友本党を組織し清浦内閣の与党となった。…
…原敬は普選を拒否し,小選挙区制を実現して衆議院で政友会の絶対多数を確保したうえ,軍備拡張,高等教育機関の充実,交通機関の整備などに膨大な予算をつぎこみ,党勢を拡張したが,強引な政策は汚職事件を続発させ,21年11月暗殺された。後継首相の新政友会総裁高橋是清は経済不況に対応して積極政策からの転換を試み,党内に内紛を生じ,緊縮財政と普選を主張する憲政会への期待が高まった。22年初めのワシントン会議により,ワシントン体制と呼ばれるアジアの新国際秩序が形成され,日本は日英同盟と石井=ランシング協定を失い,山東省の旧ドイツ利権を中国に返還し,シベリアからの撤兵を余儀なくされた。…
…しかし,若槻の対中国協調外交に不満を持つ伊東巳代治らにより枢密院で勅令案が否決され,4月18日に台銀の内地および海外支店は休業に追い込まれた。若槻首相辞任後の田中義一内閣の蔵相高橋是清は同年5月に〈台湾ノ金融機関ニ対スル資金融通ニ関スル法律〉を成立させ,台銀の再建を始めた(台湾銀行救済問題)。その後,経営回復は順調に進んだが,準戦時・戦時下の業務の重点はふたたび台湾島内に移され,業務はあまり活発ではなかった。…
…高橋是清が主導した財政。高橋は7代の内閣で蔵相になったが,特色ある財政運営は,原敬,高橋是清内閣時代と犬養毅,斎藤実,岡田啓介内閣時代に見られ,一般には後者を高橋財政と呼んでいる。…
…このようなことを背景に特許制度の創設を望む世論も高まり,85年に専売特許条例が制定された。この条例は欧米の特許制度を調査した高橋是清により起草されたものであり,高橋自身が初代の専売特許所所長となった。この条例は近代特許法の要素をほとんど取り入れており,ここに日本の特許制度の基盤が成立したといえる。…
…さらに86年2月に農商務官制の公布とともに新たに専売特許および商標登録の事務を管掌する〈専売特許局〉が設置されたのがその前身である。88年高橋是清局長の下ではじめて庶務部,審査部,審判部の3部が並立する現在の官制の原型が整えられた。その後官制改正に伴ういくたの変遷があったが,1949年に通商産業省設置法の公布によりその外局となり,現在に至っている。…
※「高橋是清」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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