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浜口雄幸 はまぐち おさち

美術人名辞典の解説

浜口雄幸

政治家・財政家高知県生。空谷と号す。東大卒。衆議院議員に六回当選し、憲政会きっての財政通として知られる。のち民政党初代総裁に選ばれ、田中義一政友会内閣に代わって組閣し、風貌と篤実な人柄から〈ライオン首相〉と呼ばれた。昭和6年(1931)歿、62才。

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百科事典マイペディアの解説

浜口雄幸【はまぐちおさち】

政治家。土佐(とさ)高知藩お山方水口家の生れで,浜口家の養子。東大卒。大蔵省に勤め,後藤新平に認められて1912年桂太郎内閣の逓信次官。1913年立憲同志会に入党,大蔵次官を経て1915年から毎回代議士に当選。
→関連項目若槻礼次郎内閣

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

浜口雄幸 はまぐち-おさち

1870-1931 大正-昭和時代前期の政治家。
明治3年4月1日生まれ。大蔵省から政界に転じ,大正2年立憲同志会に入党,4年衆議院議員(当選6回)。蔵相,内相をへて,昭和2年民政党の総裁となり,4年首相。緊縮政策と金解禁を断行したが,ロンドン海軍軍縮条約調印が,統帥権(とうすいけん)干犯として野党や軍部に攻撃された。5年11月14日東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され,6年8月26日死去。62歳。土佐(高知県)出身。帝国大学卒。旧姓は水口。
【格言など】男子の本懐です(狙撃されて)

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朝日日本歴史人物事典の解説

浜口雄幸

没年:昭和6.8.26(1931)
生年:明治3.4.1(1870.5.1)
大正昭和期の官僚政治家。旧土佐藩士の家に生まれ,のち郷士の家の養子となった。明治28(1895)年帝国大学法科大学を,幣原喜重郎,下岡忠治,伊沢多喜男などと卒業。大蔵省に入ったが,上司に睨まれ10年近くの地方勤務を続け,37年中央に戻り,40年専売局長官。大正1(1912)年第3次桂内閣で後藤新平逓相の下で次官に就任。翌年内閣の更迭で辞職し,桂の遺志を継いだ加藤高明を総裁とする立憲同志会に参加し政党人の道を歩き始めた。3年大隈内閣の大蔵次官,翌年総選挙に在官のまま当選,大蔵参政官。議会内の財政通の論客,また同志会の後身憲政会の幹部としても活躍した。13年護憲三派の加藤高明内閣の大蔵大臣,第1次若槻内閣にも留任し,緊縮財政を推進,内閣改造で内務大臣。昭和2(1927)年内閣総辞職で辞職。6月,憲政会と政友本党との合同で成立した立憲民政党の初代総裁に推戴された。4年7月大命により内閣総理大臣。この内閣は5年の選挙による立憲民政党の過半数獲得を背景に,金解禁を中心に産業の構造改善,ロンドン海軍軍縮会議の成功による対英米親善外交に努めた。軍縮や政党の腐敗などを非難する勢力の攻撃を受けたが,11月右翼の青年にピストルで狙撃され重傷。幣原外相を臨時首相代理にして治療に専念し,6年3月やや回復して野党の要求で職務に復帰したが,4月後事を若槻に託し辞職。8月死去。性謹厳実直,ライオン首相と渾名された。近年その首相時代の日記が復刻されている。<参考文献>関根実『浜口雄幸伝』,尼子止『平民宰相浜口雄幸』,青木得三『若槻礼次郎・浜口雄幸』,伊藤隆『昭和初期政治史研究』,波多野勝『浜口雄幸』

(伊藤隆)

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世界大百科事典 第2版の解説

はまぐちおさち【浜口雄幸】

1870‐1931(明治3‐昭和6)
政治家。土佐の水口(みなぐち)家に生まれ,同郷の浜口家の養子となった。第三高等学校をへて,1895年東京帝国大学政治学科を卒業。ただちに大蔵省に入り,山形県収税長,松山,熊本の各税務管理局長,東京税務監督局長などを歴任。1904年以降は煙草専売局に勤務し,07年専売局長官になった。この間に後藤新平の知遇をえ,12年第3次桂太郎内閣の後藤逓相のもとで逓信次官に就任した。14年第2次大隈重信内閣の大蔵次官となり,立憲同志会に参加,15年第12回総選挙に高知市から立候補して当選し,以来6回連続当選した。

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大辞林 第三版の解説

はまぐちおさち【浜口雄幸】

1870~1931) 政治家。高知県生まれ。東大卒。立憲同志会・憲政会に参加。衆議院議員。蔵相・内相を経て立憲民政党の総裁となり1929年(昭和4)組閣。緊縮財政・金解禁を実施、ロンドン軍縮条約に調印。30年東京駅頭で右翼に狙撃され、翌年死亡。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

浜口雄幸
はまぐちおさち

[生]明治3(1870).4.1. 土佐
[没]1931.8.26. 東京
政治家。水口胤平の3男に生れ,浜口家を継ぐ。 1895年帝国大学法科大学卒業後大蔵省に入り,1907年専売局長官,12年逓信次官,14年大蔵次官を歴任。その間,立憲同志会結党とともに参加し,15年衆議院議員に当選し,以来当選5回。 16年憲政会に入り,24年より第1・2次加藤高明内閣,第1次若槻礼次郎内閣の蔵相,26年第2次若槻内閣の内相となる。 27年立憲民政党成立とともに総裁に就任,内閣総理大臣として 29年7月民政党内閣を組織した。同内閣は田中義一前内閣の積極政策とは反対に緊縮財政政策をとり,30年1月 11日金解禁を断行,産業合理化を進め,独占資本と国家権力との結合を強化した。また,野党政友党や軍部などの強硬な反対を退けて同年4月 22日ロンドン海軍軍備制限条約に調印するなど協調外交を進めた。これらの政策は不況による社会不安の増大と,軍部,右翼の憤激を招き,同年 11月 14日東京駅で愛国社の佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負った。翌 31年3月病躯をおして登院したが,病状が悪化し,4月に内閣は総辞職,浜口は総裁も辞任し,8月に没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

浜口雄幸
はまぐちおさち
(1870―1931)

大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。また外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)のもとで協調外交を推進し、対中国関係の改善とイギリス、アメリカとの協調に努めた。1930年、ロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣し、海軍軍令部の反対を押し切って軍縮条約を締結した。内閣打倒をねらう政友会は条約調印直後の議会で統帥権干犯論を掲げて激しく政府を攻撃し、軍部右翼の統帥権干犯論をあおりたてた。枢密院での条約批准も難航したが、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)の後押しで切り抜けることができた。同年11月14日東京駅で右翼青年佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃(そげき)され、重傷を負った。政友会は第59議会でふたたび統帥権干犯論をかざして激しい政府攻撃を展開し、浜口の出席を執拗(しつよう)に求めた。無理を押しての議会出席がたたって、病状が悪化したため、1931年(昭和6)4月首相を辞任した。同年8月26日死去。その重厚で誠実な人柄については国民の信頼が厚く、その容貌(ようぼう)から「ライオン首相」とよばれた。民政党内で重きをなしていたため、その死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになった。[芳井研一]
『関根実編『浜口雄幸伝』(1931・同書刊行会) ▽池井優、黒沢文貴、波多野勝編『浜口雄幸 日記・随感録』(1991・みすず書房) ▽小柳津五郎編『伝記叢書178 浜口雄幸伝――伝記・浜口雄幸』(1995・大空社) ▽川田稔著『歴史文化ライブラリー180 激動昭和と浜口雄幸』(2004・吉川弘文館) ▽御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書19 浜口雄幸』(2006・ゆまに書房) ▽波多野勝著『浜口雄幸 政党政治の試験時代』(中公新書) ▽川田稔著『浜口雄幸――たとえ身命を失うとも』(2007・ミネルヴァ書房)』

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世界大百科事典内の浜口雄幸の言及

【民政党】より

…党首,党則,政策などの決定は憲政会のイニシアティブのもとに行われた。 民政党の結党式は,東京の上野精養軒で,1000余名の来会者をえて行われ,党総裁に浜口雄幸,顧問に前憲政会総裁若槻礼次郎,政友本党総裁床次(とこなみ)竹二郎,および山本達雄,武富時敏が就任し,富田幸次郎,町田忠治,松田源治,安達謙蔵,斎藤隆夫ら10人が総務となった。そして,党の政綱に,国民の総意を帝国議会に反映し,議会中心の政治を徹底すること,国家の力により生産を活発にして分配を公正にし,社会不安の禍根を除去すること,国際正義を国交のうえに貫き,人種平等,資源公開の原則を拡充していくこと,品性を陶冶(とうや)し,学習の機会を均等にし,教育の実際化を期すこと,立法・行政・地方自治の陋習(ろうしゆう)を打破し,改造の実現を期すことを掲げた。…

※「浜口雄幸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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