大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続けた。しかし1912年(大正1)後藤の三度目の招きに応じ、第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任した。翌1913年後藤とともに桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りした。1914年、第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の蔵相若槻礼次郎(わかつきれいじろう)のもとで大蔵次官に就任した。1915年の総選挙に初出馬で当選したが、1917年の総選挙では落選、1919年の補欠選挙で当選した。以後4回の総選挙に連続当選。1924年の護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努めた。内閣改造で内相に転じ、1927年(昭和2)内閣総辞職により辞任した。同年憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任。1929年、田中義一(たなかぎいち)政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、蔵相井上準之助(いのうえじゅんのすけ)に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行した。また外相幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)のもとで協調外交を推進し、対中国関係の改善とイギリス、アメリカとの協調に努めた。1930年、ロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣し、海軍軍令部の反対を押し切って軍縮条約を締結した。内閣打倒をねらう政友会は条約調印直後の議会で統帥権干犯論を掲げて激しく政府を攻撃し、軍部右翼の統帥権干犯論をあおりたてた。枢密院での条約批准も難航したが、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)の後押しで切り抜けることができた。同年11月14日東京駅で右翼青年佐郷屋留雄(さごうやとめお)に狙撃(そげき)され、重傷を負った。政友会は第59議会でふたたび統帥権干犯論をかざして激しい政府攻撃を展開し、浜口の出席を執拗(しつよう)に求めた。無理を押しての議会出席がたたって、病状が悪化したため、1931年(昭和6)4月首相を辞任した。同年8月26日死去。その重厚で誠実な人柄については国民の信頼が厚く、その容貌(ようぼう)から「ライオン首相」とよばれた。民政党内で重きをなしていたため、その死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになった。
[芳井研一]
『関根実編『浜口雄幸伝』(1931・同書刊行会)』▽『池井優、黒沢文貴、波多野勝編『浜口雄幸 日記・随感録』(1991・みすず書房)』▽『小柳津五郎編『伝記叢書178 浜口雄幸伝――伝記・浜口雄幸』(1995・大空社)』▽『川田稔著『歴史文化ライブラリー180 激動昭和と浜口雄幸』(2004・吉川弘文館)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書19 浜口雄幸』(2006・ゆまに書房)』▽『波多野勝著『浜口雄幸 政党政治の試験時代』(中公新書)』▽『川田稔著『浜口雄幸――たとえ身命を失うとも』(2007・ミネルヴァ書房)』
政治家。土佐の水口(みなぐち)家に生まれ,同郷の浜口家の養子となった。第三高等学校をへて,1895年東京帝国大学政治学科を卒業。ただちに大蔵省に入り,山形県収税長,松山,熊本の各税務管理局長,東京税務監督局長などを歴任。1904年以降は煙草専売局に勤務し,07年専売局長官になった。この間に後藤新平の知遇をえ,12年第3次桂太郎内閣の後藤逓相のもとで逓信次官に就任した。14年第2次大隈重信内閣の大蔵次官となり,立憲同志会に参加,15年第12回総選挙に高知市から立候補して当選し,以来6回連続当選した。24年加藤高明内閣の蔵相となって税制整理にあたり,ついで第1次若槻礼次郎内閣の蔵相,のち内相を務めた。27年立憲民政党の結成とともに総裁に就任し,28年第1回普通選挙では与党政友会に伯仲する議席を確保して,田中義一内閣を窮地に立たせた。29年7月田中内閣総辞職のあとをうけて民政党内閣を組織し,その容貌から〈ライオン首相〉とあだ名され,重厚・清廉な人柄で人気を集めた。蔵相には井上準之助をあてて緊縮政策を推進し,30年1月金解禁を行った。一方,外相に幣原喜重郎を起用して協調外交を展開,日中関係の改善をはかるとともに,イギリスの提唱に応じてロンドン海軍軍縮会議に参加し,若槻元首相,財部彪海相らを全権として派遣,財部不在のあいだ海相事務管理の職につき,軍部大臣武官制の例外をつくった。日米妥協案に対する加藤寛治軍令部長らの強硬な反対を抑え,元老西園寺公望の支持と30年2月の総選挙でえた絶対多数の力を背景として,4月ロンドン海軍軍縮条約に調印,統帥権干犯を叫ぶ政友会や右翼の攻撃に屈せず,条約否認の構えをみせた枢密院にも断固たる態度で臨み,10月条約を批准させ,戦前政党政治の一頂点を築いた。しかし,これに不満をもった愛国社員佐郷屋留雄(さごやとめお)(嘉昭)に11月14日東京駅で狙撃されて重傷を負い,31年4月総辞職,8月26日死去した。
執筆者:江口 圭一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
(伊藤隆)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
大正・昭和期の政治家,財政家 首相;立憲民政党初代総裁。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1870.4.1~1931.8.26
明治末~昭和前期の官僚・政党政治家。高知県出身。旧姓水口。浜口家の養子となる。東大卒。大蔵省に入り,煙草専売局長官・逓信(ていしん)次官・大蔵次官などを歴任。その間,立憲同志会(のち憲政会)結成に参画。1915年(大正4)以来衆議院議員当選6回。24~26年加藤高明・第1次若槻両内閣の蔵相。26年内相。27年(昭和2)立憲民政党結成とともに総裁。29年内閣を組織し,協調外交と緊縮財政・産業合理化を進めた。しかし世界恐慌のなかでの金解禁が経済混乱を招き,またロンドン海軍条約調印が反対派から統帥権干犯(かんぱん)と非難され,30年11月,急進的な国家主義者に狙撃されて重傷を負った。翌年病状悪化により内閣総辞職した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新