日本大百科全書(ニッポニカ) 「血盟団事件」の意味・わかりやすい解説
血盟団事件
けつめいだんじけん
右翼による要人暗殺事件。1932年(昭和7)2月9日、民政党筆頭総務・前蔵相井上準之助(じゅんのすけ)が小沼正(おぬましょう)により射殺され、続いて3月5日には三井合名理事長団琢磨(だんたくま)が菱沼(ひしぬま)五郎に射殺された。捜査の結果、井上日召(にっしょう)以下14名が検挙され、組織的な暗殺計画が明らかになった。ブラックリストにあげられた政財界要人は22名にも上る。盟主の井上は日蓮(にちれん)宗の僧侶(そうりょ)で、茨城県磯浜(いそはま)の立正護国堂にこもって布教に従事するかたわら、付近の青年たちを国家革新の同志として獲得した。31年十月事件のクーデター計画を知るや、井上は地方青年同志や上京中に獲得した学生同志を率いてこれに参加する決心をした。十月事件挫折(ざせつ)後も非合法手段による国家改造方針を捨てず、独自のテロ計画をたて藤井斉(ひとし)をリーダーとする海軍の青年将校グループと協力してこれを実行に移そうと謀った。しかし、32年1月に上海(シャンハイ)事変が起こり、藤井をはじめ海軍側同志に出征するものが続出したため計画を変更し、第一陣として井上一派が一人一殺による暗殺を実行し、続いて第二陣として海軍側が決起するという計画をたてた。34年11月の一審判決で井上、小沼、菱沼に無期懲役、他の11名には懲役3年から15年の刑が確定したが、たび重なる恩赦で減刑され、40年11月までに全員出所した。なお、この裁判は、被告側が「国体」の名によって司法権の独立を攻撃し、裁判所がそれに屈服したという点でも注目される。
[安部博純]
『『現代史資料4・5 国家主義運動1・2』(1963、64・みすず書房)』▽『『日本政治裁判史録 昭和・前』(1970・第一法規出版)』