金貨・金地金の輸出を自由化して金本位制度を復活させる措置。1917年9月12日以来,金貨・金地金の輸出が許可制(実質的禁止)となり,日本の金本位制は機能を停止していた。17年の金輸出禁止は,第1次大戦に参戦したアメリカの金輸出禁止に対処した措置であったが,大戦終結後,19年にアメリカが金本位制に復帰したのちも,日本は金輸出禁止をつづけた。高橋是清蔵相(1918年9月~22年6月)は,対中国政策の観点から金保有を重視し,金解禁をおこなわなかった。19年以降,貿易収支は大幅な赤字に転じ,為替相場は平価(100円=497/8ドル)を下回る円安傾向を示したが,高橋蔵相は在外正貨(政府・日本銀行が国外に保有する正貨)の払下げによって為替相場の下落を一定限度に抑えた。大戦中の巨額な在外正貨の蓄積が,しばらくは政友会内閣(原敬・高橋是清内閣)の金本位制停止下の積極的経済政策を可能にしたのである。しかし,貿易収支の大幅入超の継続は在外正貨の急激な減少をもたらし,政策転換が必要になった。市来乙彦蔵相(1922年6月~23年9月)は,緊縮政策への転換を試み,金解禁の準備を進めたが,加藤友三郎首相の病死で内閣は交替した。23年9月の関東大震災は,金解禁を当面は不可能にした。為替相場は大幅な円安となり,相場変動も激しく,25年8月からの憲政会内閣(第2次加藤高明・第1次若槻礼次郎内閣)は,金解禁を政策目標としたが,27年3月の金融恐慌の勃発で機会を逸した。
28年6月にフランスが金本位制に復帰し,国際金本位制の再建がほぼ完了すると,残された円に対する国際的圧力が強くなり,国内経済界からの金解禁を要求する声も高まった。為替相場の安定を求める貿易業・輸出産業と遊資の海外投資の機会を狙う銀行業とが金解禁を積極的に主張したグループであり,これに対して,鉄鋼業など重工業では,金解禁によるデフレーションと輸入圧力増大をおそれて金解禁に反対ないし消極的な意見が多かった。また旧来の平価ではなく,円価値を切り下げた新しい平価で金解禁をおこなうべしとの新平価解禁論も,《東洋経済新報》による石橋湛山らによって唱えられ,経済界の一部にも支持された。田中義一政友会内閣の三土忠造蔵相は,29年春に,欧米駐在の津島寿一財務官に,金解禁のためのクレジット(国際借款)を打診するよう命じた。津島は欧米の金融界と接触するなかで,新平価による金解禁案を構想して帰国の途についたが,田中内閣は張作霖爆殺事件で倒れ,29年7月に民政党の浜口雄幸内閣が登場した。
浜口内閣の井上準之助蔵相は,厳しい財政緊縮方針を実行に移し,在外正貨の充実,クレジット契約締結と準備を進め,1929年11月に翌年1月11日より金輸出を解禁する旨の大蔵省令を公布した。旧平価による金解禁であった。井上は,古典的な金本位制に絶対的な信頼をおき,金本位制によって通貨価値と為替相場の安定,国際収支の均衡が自動的に保たれるとの確信をもっていた。金本位制停止が続いたために八方ふさがり状態におちいった日本経済は,緊縮政策と金解禁によって一時の苦悩を味わうが,産業合理化を進めて国際競争力を強化すれば,やがて真の好景気を迎えることができるというのが井上の主張であった。1920年代の日本経済が,金本位制停止下にあって国際競争力の弱さと国際収支の赤字に悩んだ事態に対処して,日本経済と企業経営を鍛えなおそうとするのが井上財政であった。しかし,1929年秋には世界経済を長く深刻な恐慌にみちびくアメリカの恐慌がはじまった。金解禁によって開放経済体制に移行した日本経済は,世界恐慌の大波をまともにかぶることになった。旧平価解禁によって円高で安定した為替相場は,世界市場の縮小とともに,日本の輸出産業にとって重い足かせになった。昭和恐慌が深刻化するなかで,井上は,なおも緊縮財政を維持しつづけたが,1931年9月の満州事変の勃発は,軍事費の増加を不可避なものとした。さらに満州事変直後に,イギリスが金本位制を停止し,国際金本位制は崩壊の危機に直面した。日本の金輸出再禁止を予測して,為替市場にはドル為替の買い注文が殺到した。このドル買いに対して,井上は,無制限にドル為替を売るよう横浜正金銀行に指示するとともに,思惑買い筋の資金調達を困難にすることを狙って日銀公定歩合を引き上げて高金利政策を採用した。金本位制を維持しようとする井上の堅い決意の前に,ドル買い思惑は失敗寸前にまで追いつめられた。しかし,内閣は閣内不一致で倒れ,31年12月13日に成立した政友会の犬養毅内閣は,即日,金輸出を再禁止した。円相場は急落し,ドル思惑買い筋が凱歌をあげるなかで(ドル買事件),日本の金本位制時代の幕は閉じられた。
執筆者:三和 良一
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金の輸出を自由にし、金本位制に復帰すること。日本では1930年(昭和5)1月11日実施。第一次世界大戦中各国が金本位制を停止するなかで、日本も1917年(大正6)9月12日、金の輸出を許可制とする大蔵省令公布により、事実上金本位制を停止し、為替(かわせ)は時の相場によりフロートする体制となった。第一次世界大戦後、金本位制再建の国際世論が高まり、1922年主要国政府代表の参加したジェノバ会議はこれを支持した。日本は大戦後の不況に続いて、関東大震災、金融恐慌が起こり、金解禁の機会を逸していたが、1928年(昭和3)フランスの金本位復帰により、主要32か国中で復帰を果たしていない国は、日本を含め6か国を残すのみとなった。この間、為替相場は旧平価100円につき48ドル84.5セントに対し、震災後一時38ドル台に低下したが、昭和年代には年平均46~47ドルに回復したものの、投機による相場の乱調な上下は正常な国際取引を阻害したから、国内の世論もまた、金本位制への復帰を待望した。1929年7月、金解禁即時断行を党是とする民政党の浜口雄幸(おさち)内閣が成立すると、蔵相に井上準之助を据え、ただちに解禁の準備に着手、予算を削減して緊縮財政によるデフレ政策を推進し、国内物価の国際物価へのさや寄せを図るとともに、金準備の充実のため、米英銀行団からのクレジット1億円を設定、11月に、翌1930年1月に金を解禁すると予告した。浜口首相、井上蔵相の意図は、為替安定下に産業を合理化し、日本経済の国際競争力を高め、また、金本位制の景気調節機能によって、経済を正常化することにあった。しかし旧平価による解禁は、日本経済の実勢に対しやや円高で厳しいものであったうえに、1929年10月ニューヨーク・ウォール街の株式暴落に始まった世界恐慌は、内外識者の予測を裏切って深刻化し、デフレ政策に伴う日本の物価低落を上回る海外物価の低下により、輸出は振るわず、日本経済は未曽有(みぞう)の不況に陥った。井上は金本位制維持の方針を堅持して、緊縮財政政策を続けた。しかし1931年9月、満州事変が勃発(ぼっぱつ)し、ついでイギリスが金本位制を停止すると、日本の金再禁止間近しとの観測から、円売りドル買いが盛んに行われた。井上は円を買い支えて防戦に努めたが、金の流出が続き、金本位制維持は困難となった。同年12月13日、犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立し高橋是清(これきよ)が蔵相に就任すると、ただちに金輸出再禁止が実施され、日本の金本位制は終焉(しゅうえん)した。
[大森とく子]
『中村政則著『昭和の歴史2 昭和の恐慌』(1982・小学館)』▽『長幸男著『昭和恐慌』(岩波新書)』▽『中村隆英著『昭和恐慌と経済政策』(日経新書)』
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金の輸出入を自由化し,金本位制に復帰すること。第1次大戦の勃発にともない,英米など主要国は金輸出禁止措置をとり,これに追随して日本も1917年(大正6)9月金本位を一時離脱した。大戦後の19年,アメリカがいちはやく金本位に復帰し,その後1920年代半ばまでに主要国が金本位に復帰したが,日本は関東大震災・金融恐慌などのために金本位への復帰が実現できなかった。29年(昭和4)7月に登場した浜口内閣は金解禁即実行を政綱に掲げ,30年1月旧平価による金解禁が実施されたが,世界恐慌のなかで莫大な正貨流出を招き,31年12月の犬養内閣の成立とともに金輸出は再禁止され,金本位制は崩壊した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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