出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、後漢(ごかん)最後の皇帝(在位189~220)。姓名は劉協(りゅうきょう)。189年4月、父霊帝が死ぬと、少帝劉辯(りゅうべん)が即位した。9月洛陽(らくよう)に入った董卓(とうたく)は少帝を廃して、陳留王劉協を帝位につけた。袁紹(えんしょう)らが董卓討伐の兵をあげると、翌年董卓は帝を伴って長安に遷都した。しかし董卓は王允(おういん)、呂布(りょふ)に殺され(192)、王允も李傕(りかく)に殺され、帝は李傕に追われて洛陽に帰った(196)。当時洛陽は荒廃の極にあり、同年曹操(そうそう)はその本拠地許(河南省許昌県西南)に帝を迎えた。その後、曹操は次々と群雄を倒して強大となり、魏(ぎ)公、魏王となって実権を振るい、伏皇后を殺して己の娘を皇后とするなどしたが、最後まで臣下の地位にとどまった。曹操が死ぬと(220)、その子曹丕(そうひ)は帝を廃位して自らが帝位についたため、後漢王朝は滅んだ。
[五井直弘]
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…曹操はだいたい山東省西部から江蘇省北部に及ぶ地方を勢力下に収めた。後漢最後の皇帝献帝を長安(西安)に移した董卓が192年に殺されたあと,献帝が廃墟と化した洛陽に帰ったのを見て,194年(興平1),献帝を許(河南省許昌)に迎え,ここに屯田を設けて自己の根拠地にした。 かくて献帝から大将軍の地位を授けられ,盟主であった袁紹よりも上位に立つと,両者の対決は必至となり,200年(建安5)官渡の戦で曹操は決定的な勝利を収めた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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