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王国維 おうこくい Wang Guo-wei

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

王国維
おうこくい
Wang Guo-wei

[生]光緒3(1877).12.3.
[没]1927.6.2. 北京
中国,清末~民国の歴史家,文学者。浙江省海寧県の人。字,静安。号,観堂。光緒 24 (1898) 年上海に出て羅振玉に認められ,同 27年日本に留学したが,病気で翌年帰国。辛亥革命の際,羅振玉と日本に亡命して京都に住んだ。

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デジタル大辞泉の解説

おう‐こくい〔ワウコクヰ〕【王国維】

[1877~1927]中国、近代の歴史学者。海寧(浙江省)の人。字(あざな)は静安。号は観堂。西欧の哲学を学び、それに基づいて中国古典の再評価を行う。羅振玉(らしんぎょく)に認められ、日本に留学。辛亥(しんがい)革命のとき日本に亡命、中国古代史研究に画期的な業績を残した。著「観堂集林」など。ワン=クオウエイ。

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百科事典マイペディアの解説

王国維【おうこくい】

中国,清末・民国初めの文学者,歴史学者。浙江省海寧県の出身。1901年日本留学。帰国後辛亥(しんがい)革命のため羅振玉と日本へ亡命。京都に住み,考証学の手法で経・史の研究に専念。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

王国維 おう-こくい

1877-1927 中国の歴史学者。
光緒3年10月29日生まれ。上海の東文学社で羅振玉(ら-しんぎょく)にまなぶ。辛亥(しんがい)革命がおこると日本に亡命。金石文,甲骨文などの研究で業績をのこした。1916年帰国し,精華研究院教授となるが,国民革命軍の北京入城を前にして1927年6月2日自殺した。51歳。浙江省出身。字(あざな)は静安。号は観堂。著作に「宋元戯曲考」「人間(じんかん)詞話」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

おうこくい【王国維 Wáng Guó wéi】

1877‐1927
中国,清末から民国の歴史学者。浙江省海寧県の生れで,字は静安,号は観堂。1898年(光緒24)に上海の東文学社に入学してしだいに学才を認められ,以後羅振玉から特別に目をかけられるようになる。1901年に日本に留学して物理学校に学んだが脚気を患って翌年に帰国し,羅振玉に従って師範学校の教職に就いたりする。11年,辛亥革命がおこると羅振玉とともに日本に亡命し,京都に滞在した。彼は東文学社在学時からショーペンハウアーニーチェなどの哲学に共鳴し,また文学を愛好した。

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大辞林 第三版の解説

おうこくい【王国維】

1877~1927) 中国の学者。浙江省出身。字あざなは静庵・伯隅。号は観堂、諡おくりなは忠愨ちゆうかく。1901~1902年、日本に留学。辛亥しんがい革命後、京都に亡命。羅振玉に考証学・金石学を学び、藤田豊八に西洋の哲学・文学・美術を学ぶ。西洋美学によって中国古典を再評価し、「紅楼夢評論」「人間詞話」などを著し、甲骨文研究にも先駆的業績を残した。ワン=クオウェイ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

王国維
おうこくい / ワンクオウェイ
(1877―1927)

中国、清(しん)末期から中華民国初頭の詩人、学者。字(あざな)は静安。号は観堂。没後に忠(ちゅうかく)と諡(おくりな)された。12月3日生まれ。浙江(せっこう/チョーチヤン)省海寧の人。科挙に失敗したのち、1898年上海(シャンハイ)に出て時務報館に勤め、かたわら羅振玉(らしんぎょく/ルオチェンユイ)が主宰した東文学社で日本語、英語などを学ぶ。師に藤田剣峯(ふじたけんぽう)(豊八(とよはち))や田岡嶺雲(たおかれいうん)がいた。1901年(明治34)東京物理学校に留学。翌1902年病気で帰国し、羅振玉主編の『教育雑誌』の編集などに従う。このころからカント、ニーチェ、ショーペンハウアーらの哲学への関心を深め、やがて興味は文学や教育にも及ぶ。この約10年間、これら各分野にわたって著述、翻訳に健筆を振るうが、なかでも『紅楼夢評論』は、ショーペンハウアーの美学に基づき、『紅楼夢』を中国文学に欠けている悲劇の文学と位置づけたもので、中国における最初の体系的な近代批評とされる。それらを集めて『静安文集』(1905)を刊行。また『人間詞話(じんかんしわ)』や、今日も古典的名著とされる『宋元(そうげん)戯曲考』(1912)を書いた。
 辛亥(しんがい)革命後、羅振玉に従って京都に住んだ(1911~1915)が、このころから文学を離れて歴史学の研究に進み、『流沙墜簡(りゅうさついかん)』(1913)、『殷卜辞(いんぼくじ)中所見先公先王考』『同続考』(1917)をはじめ、考古学、甲骨学、音韻学などにわたって大きな業績を残した。1925年清華大学教授となったが、1927年6月2日、国民革命軍の北京(ペキン)入城を前に北京・昆明池(こんめいち)に投身自殺した。清朝に殉じたとされるが、疑う者も多い。著作は『王忠公遺集』『観堂集林』などに収める。[伊藤虎丸]

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世界大百科事典内の王国維の言及

【金石学】より

…また山東の陳介祺(ちんかいき)や呉式芬(ごしきふん)も青銅器の収集,鑑識と金文解読に卓越していた。民国に入り,王国維が出ると,金文研究は飛躍的に前進する。器形と金文書体への新しい解釈,他の文献史料との有機的結合によって,金文を使った古代史研究に新しい時代が画された。…

【古文書学】より

…いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。以上の4文書群すべてに研究の先鞭をつけ,その後の発展に貢献したのは羅振玉と王国維である。解放後の中国では,さかんな古墓の発掘にともない各地から戦国・秦漢の帛書や竹木簡が大量に出土し,新たなトゥルファン文書も発掘された。…

【竹書紀年】より

…伝承されてきたテキスト,いわゆる《今本竹書紀年》には後人の手が入っていて信頼性に欠け,それゆえ,唐・宋以前のこの書物の引用文から〈古本〉を復元しようとする作業がいく人かの学者によってなされている。王国維《古本竹書紀年輯校》がそうした成果の一つである。【小南 一郎】。…

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