中国、清(しん)末期から中華民国初頭の詩人、学者。字(あざな)は静安。号は観堂。没後に忠(ちゅうかく)と諡(おくりな)された。12月3日生まれ。浙江(せっこう/チョーチヤン)省海寧の人。科挙に失敗したのち、1898年上海(シャンハイ)に出て時務報館に勤め、かたわら羅振玉(らしんぎょく/ルオチェンユイ)が主宰した東文学社で日本語、英語などを学ぶ。師に藤田剣峯(ふじたけんぽう)(豊八(とよはち))や田岡嶺雲(たおかれいうん)がいた。1901年(明治34)東京物理学校に留学。翌1902年病気で帰国し、羅振玉主編の『教育雑誌』の編集などに従う。このころからカント、ニーチェ、ショーペンハウアーらの哲学への関心を深め、やがて興味は文学や教育にも及ぶ。この約10年間、これら各分野にわたって著述、翻訳に健筆を振るうが、なかでも『紅楼夢評論』は、ショーペンハウアーの美学に基づき、『紅楼夢』を中国文学に欠けている悲劇の文学と位置づけたもので、中国における最初の体系的な近代批評とされる。それらを集めて『静安文集』(1905)を刊行。また『人間詞話(じんかんしわ)』や、今日も古典的名著とされる『宋元(そうげん)戯曲考』(1912)を書いた。
辛亥(しんがい)革命後、羅振玉に従って京都に住んだ(1911~1915)が、このころから文学を離れて歴史学の研究に進み、『流沙墜簡(りゅうさついかん)』(1913)、『殷卜辞(いんぼくじ)中所見先公先王考』『同続考』(1917)をはじめ、考古学、甲骨学、音韻学などにわたって大きな業績を残した。1925年清華大学教授となったが、1927年6月2日、国民革命軍の北京(ペキン)入城を前に北京・昆明池(こんめいち)に投身自殺した。清朝に殉じたとされるが、疑う者も多い。著作は『王忠公遺集』『観堂集林』などに収める。
[伊藤虎丸 2016年3月18日]
中国,清末から民国の歴史学者。浙江省海寧県の生れで,字は静安,号は観堂。1898年(光緒24)に上海の東文学社に入学してしだいに学才を認められ,以後羅振玉から特別に目をかけられるようになる。1901年に日本に留学して物理学校に学んだが脚気を患って翌年に帰国し,羅振玉に従って師範学校の教職に就いたりする。11年,辛亥革命がおこると羅振玉とともに日本に亡命し,京都に滞在した。彼は東文学社在学時からショーペンハウアーやニーチェなどの哲学に共鳴し,また文学を愛好した。従来,研究の対象としてはあまり顧みられなかった劇文学の研究を開拓し(《宋元劇曲史》),また詞の批評《人間(じんかん)詞話》は人口に膾炙(かいしや)している。しかし亡命後は羅振玉の勧めによって中国古典の学問に精進し,羅振玉を助けて甲骨文,金文,敦煌出土の簡牘(かんとく)など,当時はじめて世に現れた史料の整理と研究に専念した。彼は古典を駆使し,清朝考証学の流れをくむ精密な分析と抜群の着想によってこれらの新史料を解読し,史学をはじめとするあらゆる分野で多くの新知見を発表したが,なかでも注目されるのは殷墟出土の甲骨文に関する一連の研究である。そこでは甲骨文にみえる祖宗名が《史記》殷本紀などに所載の殷王朝の系図と一致することから,甲骨文が殷代の第一等史料であることを証明するとともに,殷・周両王朝の家族や社会や政治制度の大きな相違を論じて古代史研究に画期的な足跡を残した。1916年に帰国後は,上海の倉聖明智大学教授,25年には北京の清華研究院教授となる。終生,清朝の遺臣をもって任じていた彼は,27年国民軍馮玉祥(ふうぎよくしよう)の北京入城を前にして清朝の前途を悲観し,頤和園内の昆明池に投身自殺した。宣統廃帝から忠愨(ちゆうかく)の諡(おくりな)を賜った。主要な論文は《観堂集林》に収められているが,彼の生涯の友であり,よき師であった羅振玉が万感こめて整理した《海寧王忠愨公遺書》には全著作がほとんど網羅されている。
執筆者:永田 英正
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1877~1927
清末民国初期の史学者。浙江(せっこう)省海寧県の人。初め西洋哲学,中国の戯曲を研究。辛亥(しんがい)革命後,日本に亡命して京都に住み,中国の古典,古代史の研究に専念。帰国後教職にあったが,中国の前途に絶望し入水自殺した。その研究は広範で,敦煌(とんこう)発見の漢代木簡,殷墟(いんきょ)発見の甲骨文字の研究などは,特筆すべきものである。
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…また山東の陳介祺(ちんかいき)や呉式芬(ごしきふん)も青銅器の収集,鑑識と金文解読に卓越していた。民国に入り,王国維が出ると,金文研究は飛躍的に前進する。器形と金文書体への新しい解釈,他の文献史料との有機的結合によって,金文を使った古代史研究に新しい時代が画された。…
…いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。以上の4文書群すべてに研究の先鞭をつけ,その後の発展に貢献したのは羅振玉と王国維である。解放後の中国では,さかんな古墓の発掘にともない各地から戦国・秦漢の帛書や竹木簡が大量に出土し,新たなトゥルファン文書も発掘された。…
…伝承されてきたテキスト,いわゆる《今本竹書紀年》には後人の手が入っていて信頼性に欠け,それゆえ,唐・宋以前のこの書物の引用文から〈古本〉を復元しようとする作業がいく人かの学者によってなされている。王国維《古本竹書紀年輯校》がそうした成果の一つである。【小南 一郎】。…
※「王国維」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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