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田岡嶺雲 たおか れいうん

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美術人名辞典の解説

田岡嶺雲

明治時代の文芸・社会評論家・漢学者。本名佐代治。高知県生。教員等を経て『万朝報』『九州日報』の記者となる。文芸批評における社会主義的評論の先駆者。その著書は度々発禁処分を受けた。大正元年(1912)歿、43才。

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デジタル大辞泉の解説

たおか‐れいうん〔たをか‐〕【田岡嶺雲】

[1870~1912]評論家・中国文学者。高知の生まれ。本名、佐代治。社会主義評論で活躍。著「壺中観(こちゅうかん)」「明治叛臣伝」「数奇伝(さっきでん)」など。ほとんどが発売禁止に処せられた。

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百科事典マイペディアの解説

田岡嶺雲【たおかれいうん】

評論家。本名佐代治。土佐の人。東大漢学科卒。早く自由民権運動の影響を受け,文学,政治に対する革新的評論を書いた。現代文明の非人道性を弾劾した〈非文明〉の思想を唱え,また明治30年代の社会小説の興隆に先駆けて社会文学を提唱。
→関連項目田中貢太郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

田岡嶺雲 たおか-れいうん

1871*-1912 明治時代の評論家。
明治3年11月21日生まれ。投書雑誌「青年文」を主宰,樋口一葉や泉鏡花を早くから評価。のち「万朝報」「中国民報」などの記者や主筆をつとめ,幸徳秋水らとまじわる。雑誌「天鼓」などで反資本主義,女性解放をとなえたが,ほとんどの著作が発禁となった。大正元年9月7日死去。43歳。土佐(高知県)出身。帝国大学卒。本名は佐代治。著作に「嶺雲揺曳」,自伝「数奇伝」など。
【格言など】伝説旧習の奴隷となるはもとより恥ずべき

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朝日日本歴史人物事典の解説

田岡嶺雲

没年:大正1.9.7(1912)
生年:明治3.11.28(1871.1.18)
明治時代の評論家,中国文学者。本名佐代治,別号栩々生など。土佐国(高知県)生まれ。自由民権運動の影響を受け,大阪や東京で学ぶ。明治27(1894)年,帝大漢文学科選科卒業。在学中から評論活動をはじめ,ハイネや蘇東坡を論じた。投書雑誌『青年文』主筆となり,北村透谷,樋口一葉,泉鏡花を評価,日清戦争後の抑圧された状況のなかで,下層細民の現実を描く方向を提唱。評論集『嶺雲揺曳』(1899)は世に歓迎されたが,それも嶺雲の論調とやや硬質の文体によろう。明治32年から一時中国に渡り,北清事変の反戦ルポ『戦袍余塵』(合著『侠文章』1900年所収)を書く。非戦論,資本主義批判の論調はさらに高まり,『平民新聞』『天鼓』でも活躍,『壺中観』(1905),『霹靂鞭』(1907)などは発禁となった。晩年は脊髄病で苦しむが,自由党左派の記録『明治叛臣伝』(1909)や自伝『数奇伝』(1911~12)のほか,中国文学研究でも力量をみせた。

(中島国彦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

たおかれいうん【田岡嶺雲】

1870‐1912(明治3‐大正1)
明治末期の文芸評論家・文明批評家。本名佐代治。土佐の自由民権の風土に生まれ育つ。大阪官立中学校在学中,おりからの森有礼文相による学校の軍隊式圧制化に反抗,病気退学。療養後,水産伝習所を経て1891年帝国大学文科漢文学科の選科に入学。ユゴー,ハイネらに傾倒。卒業後《青年文》を創刊した。樋口一葉をいち早く評価。また〈悲惨小説〉を論じ,都市〈下流細民〉の〈社会的暗黒〉を見すえた国民文学を提唱する。1894‐1903年津山中学教師,《万朝報》記者,《いはらき新聞》主筆,上海の学校教師,《九州日報》北清事変従軍記者,《中国民報》主筆等を転々。

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大辞林 第三版の解説

たおかれいうん【田岡嶺雲】

1870~1912) 評論家。高知県生まれ。本名、佐代治。「青年文」を主宰、下層貧民に対するヒューマニティーの立場から健筆を振るい、のち社会主義に接近。評論「嶺雲揺曳」「壺中観」「明治叛臣伝」、自伝「数奇伝」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

田岡嶺雲
たおかれいうん

[生]明治3(1870).11.28. 土佐,井口
[没]1912.9.7. 日光
評論家,中国文学者。本名,佐代治。 1894年東京大学漢文選科卒業。被抑圧階級への開眼を文壇に訴え,観念小説深刻小説を支持する一方,1899年中国に渡り,康有為らと交遊し,『侠文章』 (1900) ,『下獄記』 (1901) など,戦争,天皇制,資本主義への批判の記録を発表。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

田岡嶺雲
たおかれいうん
(1870―1912)

評論家、中国文学者。本名は佐代治(さよじ)。明治3年11月21日高知県土佐郡石井村(現高知市)に生まれる。父は下級の武士、維新後は質屋を営む。少年時代に土佐民権の運動に参加、水産伝習所(のち東京水産大学。現東京海洋大学)を経て帝国大学の文科大学漢学科に選科生となる。在学中に山路愛山(やまじあいざん)批判や先駆的なハイネ伝や蘇東坡(そとうば)論で新進批評家として注目を受ける。卒業翌年の1895年(明治28)からは主として『青年文』誌に文芸評論を書き、日清(にっしん)戦後の「戦後文学」高揚期に樋口一葉(ひぐちいちよう)をいち早く評価し、泉鏡花、江見水蔭(えみすいいん)らの独自な作風を認めるなど、戦後の新文学を擁護して目覚ましい活動を展開、その評論集『嶺雲揺曳(ようえい)』(1899)は当時としてのベストセラーになった。高山樗牛(ちょぎゅう)の浪漫(ろうまん)主義が時流の国家主義と結び付いていたのと違って、嶺雲の浪漫主義は「詩人と人道」などという文章があることからも知られるように民衆的なヒューマニズムと結び付いていた。その後、浪漫派らしい不遇と遍歴を重ねながら、明治体制に対する批判的なデモクラティックな思想家として成熟してゆき、多くの評論集や中国文学の翻訳・研究などを出したが、評論集はそのつど発売禁止となり、大正元年9月7日に没した。彼への十分な評価はようやく第二次世界大戦後になって行われ始め、敗戦後、西田勝による『田岡嶺雲選集』(1956・青木文庫)、家永三郎による『数奇なる思想家の生涯』(1954・岩波新書)が出された。[小田切秀雄]
『『田岡嶺雲全集』全8巻(1969~ ・法政大学出版局)』

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